生まれ持った心が傷
楽しければそれでいいのよ。わからないけどそう思って書いてる。
最近はわりと書くのが楽しくて小説を書いている。結果がほしいとか、誰かに読まれたいとかそういう気持ちは減ってきている。減ってきているというだけど、結局結果がダメだとイライラする。どこへ行っても私は理解されないのだなと思う。
でもそれは理解される努力を怠っているからだと言われる(気がする)。誰かに理解されるためにみんな努力をしているってこと?と思う。成功体験がないから努力のしようもない。
かといって私は他人から理解されまいと必死に逃げている。理解されてしまえば、それが正しくても間違っていても人は飽きるし、離れていく。でもまずは理解したいと思われなければいけない。そして正しくても間違っていても理解されないことにはどこにも行けない。
逆もそうでまず理解したいなと思わなければ先はない。だからよくわからない感情をそのまま言葉にすることは大切で、美しい行為なのだけど、どうも他者に理解できる形で言語化する行為ばかりがもてはやされてる。理解のその先には好きか嫌いかしかないのだけどなと思う。決断を保留にし続けることができればとてもよい。
わかる言葉見知った言葉で話されるのは安心するし、そういうものを求めているときはあるのだけど、結局退屈でなににもならないから強い言葉を使ってみる。感性だけで会話ができたらいいのだけど、そういうものって理解されず、悲しい思いをするだけだから、なら強い言葉で、強い言葉を使っていると理解させた方がおもしろい。
誰も傷つかないものを見るたびにそんなものはまやかしだと思う。人は傷つくものだから。誰かが傷ついているものを見るとそれは本物だと思うか。別にそうは思わない。それは偽物の傷だって思いたい。
共感なんてものは全くの嘘で人は自分が体験したものしか感じられない。見たものしか見れないし、見たいものしか見れない。あなたの傷は偽物だと言いたい。なぜなら私の傷が本物だからだ。あなたの傷も本物で、私の傷も本物だなんてことをどうして理解できるのだろうか。生まれ持った心が傷だとあなたは言うのに。