幸せとはなんだろうなとよく考える。普遍的な幸せというより私にとっての幸せ。例えば結婚して子供を産み育てることを幸せとすると、子供のころは幸せじゃなかったのかとなるし、私にとっては奇跡をいくつか望むようなものになってしまうので困る。

幸せは人生のフェーズによって変わっていくものなのかもしれない。でもそれだと都度幸せを探しつづけないといけない。幸せの形は変わるかもしれないけど、本質は変わらないはずだ。

幸せの本質を探していくというより、私としては幸せの定義を決定したい。私はこれをしているときは幸せです、と決めてしまって、それに則って生きていきたい。結局幸せを探すとなると、どこを探せばいいかわからないし、本当にこれが幸せなのか?みたいなことになりかねない。

しかし私は何をしているときが幸せなのだろう。それらの共通項のようなものを見つけることができれば幸せの本質が見えるような気がしたけど、それは幸せを探しているのと同じなのかもしれない。

今の私の感覚だと、私の幸せはマイナスがない状態であること、になる。だから極力マイナスを抑えて、小さなプラスを望んでいる。

マイナスがないというのは不幸がないということで、プラスなことというのは幸せと言い換えることができるのかもしれない。なら幸せは小さなプラスの集合体になる。つまり幸せになるためには数直線のプラス側の目盛りは細かく、マイナス側の目盛りを大雑把にするのがよい。もしくはチェンソーマンのデンジみたいに自らを地獄に置いて、幸せのふり幅を最大にする。

だとすると幸せはそこらへんにたくさんあるよ、という何とも言えない結論になってしまう。わりと本質的なのかもしれない。でもそれはそれで面倒だなと思ってしまう。

幸せになる必要はないのかもしれない。幸せになることを目標にして生きると、人生をそれなりにがんばらないといけないけど、幸せにならなくてもいいと思えればがんばらなくても何とかなる。生きているのなら幸せにならなければいけない、幸せを目指さなければいけないというのは一種の強迫観念だろう。

曖昧なものを追い求めるのは難しい。幸せというのは我々が作りだした幻想なのかもしれないとよく思う。幸せな結婚、幸せな家庭像、裕福な暮らしなどなど。と言いつつも幸せというのはたぶん確実にこの世界に存在していて、それを不確定的に訪れることがあるから厄介なのだろうな。

人間は予測不可能な報酬により強く反応するらしい。例えば美味しいものを食べて幸せを感じる。ただ食べるものすべてが美味しいわけじゃない。でもたまに美味しいものに出会うことがあり、その偶然性みたいなものに幸せを感じる。そして人は美味しいものを探し求めて、たくさんのものを食べることになる。

だから幸せをコントロールしようというのは無理なのかもしれない。幸せガチャを大量に回すしかない。ただそのガチャもだんだん感覚が麻痺していくのだろうなと思う。

だから幸せになろうなんて思うのが間違っているような気がするのだけど、だとするとあなたは何のために生きているんです?となる。

人生に意味はあるかと聞かれたら、そんなものはないと答えるしかないし、何のために生きてるの?という質問には、ただ生きっているだけだと答えるしかない。

結局そういう空っぽな状態から人生を考えるしかないのだろうなと思うし、自分で生き方を決定していくしかないのだろうなと思う。何もしないで生きるには現代人の人生は退屈すぎる、またふりだしに戻った感がある。

https://note.com/qa/niko2_5_