【短編小説】スノウ①
彼女は私の問いに対して、「スノウ」と答えた。明らかに偽名だった。そのことに少し傷つきはしたが、名前なんて親が決めただけの識別記号に過ぎないのだ。私が彼女だと識別できればそれで問題はない。幸いにも「スノウ」と名乗る女に私はこれまで出会ったことはなかった。
「Uよ。Uと呼んで」
私はすべてが終わったあとにそう言った。彼女とはまた会うことになるだろう。そして彼女には私を固有の女として識別してほしかった。
「わかった、Uね、おぼえておく」
彼女はそう言って、部屋を出ていった。
連絡先は交換しなかった。彼女をLINEやInstagramやTwitterのような社会的な虚像で認識したくはなかった。私だけの彼女でいてほしかった。
しかし結局、三回も会うころには偶然のめぐりあわせに期待するだけの日々に耐えられず電話番号を交換した。080から始まるその数字の羅列が彼女の頑強なロックを解除するキーのように思えた。
***
外では重たい雪が降っていた。雪は灰色の空から埃のように落とされては地面に積もっていった。外では氷点下を下回っているのに、この部屋はめまいがするほど暑い。この街に越して来て初めの冬に買った石油ストーブがじりじりと私を焼く。私はひんやりと冷たい窓辺に座り、絶え間なくひらひらと落下する雪を眺めていた。
「スノウ」と口に出してみる。魔法のようにぐるぐると体が熱を持ち始める。冬は良い。自分が誰に恋をしているのか明確にわかる。
彼女の名前と似つかわしくない、熱帯雨林のような奇妙な髪色が恋しい。記憶のなかの、鋭く尖った月のような一重の瞳が、現在の私を見つめた。体が内側から焼かれていく。
***
「この街で本当の意味で孤独に生きてるのは私たちだけよ」
私の隣でスノウは言った。私はその目を見るだけで、息をするのもやっとだった。
「この街には雨が雪に変わること、そして雪が氷に変わることも知らないで生きているような人たちばっかり」
「私は知っているの?」と私は彼女に訊ねた。
「あなたは知ってる。目を見ればわかる。胸の音を聞いても」
彼女はそう言って、私の何もつけていない裸の胸に耳を当てた。心臓がある種の抗議デモのように大きな音をたてて騒いだ。すべての時間が止まり、私の心臓だけが無意味に活動を続けていた。
彼女はふっと鼻で笑い、私の右胸に唇をつけた。少し寒くなってきたのだ。私はエアコンのリモコンに手を伸ばし、部屋の温度を2℃上げた。
窓の外では絶え間なく雪が降っていた。私は彼女の髪をなでた。名前も年齢も職業も知らない女が私の隣で眠っている。彼女も同じように私の名前も年齢も職業も知らない。
しかし私は知っている。彼女が私の右胸のほくろへのキスをある種の儀式のように欠かさずに行っていること、月のように冷たく輝くその瞳が彼女の熱情の証だということ、緊張すると右手の親指をぎゅっと握りこむこと、それを左手の手のひらで覆い隠すこと。そして雪が嫌いなこと。
「スノウ」と私はつぶやく。
「スノウ、スノウ、私のスノウ」
髪をなで、瞳にかかった髪を流し、彼女の頬にキスをする。そのあとは降る雪のように消えていく。