雪が降っていない。予報では今日も雪だった。雪が降らなければ彼女と会えない。

 寒い。私は空を見上げる。いつ雪が降ってきてもおかしくないような空だ。灰色の毛布のような雲が空を覆いつくしている。歩けば歩くほど耳の先が切りつけられるように冷えていく。息を吸えば鼻腔が凍りつきそうな冷たく鋭い空気が入り込む。唐突に私は震えた。ダウンジャケットのなかは温かい空気で満たされているが、体の芯がガタガタと寒さに震えている。

 路面には先日の雪がまだ残っている。踏みつけると遠くで響く発砲音のような音が聞こえる。歩き進めると雪の量も減り、白い雪の隙間から黒い道路が覗くようになる。次第にそれらの雪もほとんど消え、人々の足跡や自転車のタイヤの跡だけが残った。どろを踏みつけるような足音が聞こえる。

 似ているのに見慣れないもので溢れている。街もすれ違う人も車もパトカーのサイレンもすべてがどこか違っている。デジャヴのように、夢のなかのように、違和感がずっと胸の内で燻りつづけている。走り去る車はどこか滑らかでつやのあるように見える。葉の枯れ落ちた街路樹は地獄から伸びる人々の手のように見える。街は全体的に若く、どこかおとなしげに見える。

 都心から少し外れているからか、人も建物もまばらだ。首をほとんど真上に傾けなければ頂上が見えないようなビルもほとんどない。どの建物もまっすぐ前を見て歩いていれば視界に収まり、開かれた曇り空が一緒に見える。

 この街に来て一年になる。私の住んでいた世界とどこか似ている街。見慣れない言葉で溢れた街。よく見知ったものですら、丸みのない線の集合体のような文字で表されるとまるで別のもののように思える。それらの文字がバラバラと氾濫し、私に襲いかかる夢を何度も見た。雑居ビルに連なる看板の文字が、映像広告の字幕が、人々のしゃべる言葉が、意思を持ったように磔にされた持ち場から離れて私を押し流す。

 ちらちらと雪が降り始めた。私ははっとして顔を上げる。急に立ち止まった私を大勢の人が避けて、先を急ぐように歩いて行った。私は空で小さな白い鳥の大群が羽ばたいていくかのような、そんな聖性を帯びた雪を見ていた。重たい雲に覆われた天が裂け、きっと天使が降臨する。そう、雪だけが変わらずに降る。すべての人の頭上に平等に。

***

「私の生まれ育った町はみずうみの底に沈んだの」と彼女は言った。

 私は彼女のおへそのあたりに耳をぴったりとつけながら、目を閉じて彼女の声を、夢のなかで反響するようなその声を聞いていた。同じ体温を持つ二人だ。彼女の身体のどこを触っても冷たくない。温かくもない。

「町には小さな教会があって、私はよくそこに行っては、座ってぼんやりと神さまの言葉を聞いていた。美しい言葉たちだと思った」

 彼女は独り言をつぶやくように、神さまの言葉の一部を暗唱した。それらはどれも脈絡がなく、文章として不完全だった。

「私の村がみずうみに沈む前、小さな反対運動がおこったの。警察と軍とか大きな力が動くまでもなく、それは他の住民の弾圧によって鎮められたのだけど」

 軍? と私は思う。私が住んでいた国に、つまり彼女が生まれ育ったと思われる国にそのような武装した国家権力はなかった。

「家や土地を失うわけだから、その分を国からお金がもらえるの。だから村のみんなは喜んで賛成していたのね。こんな田舎の村からさっさとおさらばして、もっとまともな場所に住むんだ。このお金で事業を始める、子供の教育資金に充てる、老後を海外で過ごすなんて言って」

 私は無意識的にベッドの掛布団を首もとまで引っ張り上げた。ホテルの窓から外を見ると、大きな雪が舞っていた。彼女はそんなことには目もくれず、ベッドの上で壁に寄りかかりながら、ただじっと消音で流れ続けるテレビのニュース番組を見ていた。

「その小さな反対運動の中心は私の母だったの。母を含めて五人くらいで、家々を回って署名活動なんてしていた。私もよく母に連れられ一緒に歩き回ったのを覚えてる。きっと小さな子供がいた方が色々と都合がよかったんだろうね。でも母も他の一緒に活動をしていた人たちも、ほとんどの家で門前払いを受けてた。あなたたち何言ってるの? 頭おかしいんじゃないの? そんな扱いだった」

 シャム双生児のように私と重なり合った彼女の体温が下がっていくのを感じる。私は掛布団を持ち上げ彼女に中へ入るように促す。しかし彼女は私をちらりと見たものの、私が促している行為が何か理解できていないようだった。

「でもね、それだけだったの。すれ違う時に少し気まずそうな顔をするとか、母の挨拶に対して聞こえないふりをするとか、それくらい。それに村の人が全員がそうだったってわけじゃなかった。なるべくこれまで通りの態度で接してくれた人たちもいた。でも母は、そんな人たちを裏切るように活動の熱量を上げたの」

 私は彼女の見たこともない母を想像した。ダムに沈んでしまう村を一人守ろうとしている人。その人はどんな顔をしているのだろうか。彼女に似ているのだろうか。

 ニュースが突然切り替わり、一人の男が身柄を拘束され車に乗り込む映像が流れた。この人のことは知っている。彼が犯罪者と呼んでいたこの国の大統領だ。彼はなぜ身柄を拘束されているのだろう。

「ごめんね、もう行かなきゃ」

 彼女はそう言って、私の頭をそっと持ち上げてベッドから立ち上がった。どこへ行くというのだろう。この街のどこに行くところがあるのだろう。私はそそくさと服を着始める彼女をまるで映画でも眺めるみたいに見ていた。なぜ服を着てしまうのだろう。彼女が彼女でなくなっていくような気がする。一枚また一枚と彼女は服をまとっていく。さびしい。私から離れていかないで、と思う。体を重ねることとはまた違ったさびしさだ。

「ねえ、話の続きは?」

 ドアの前で彼女は立ち止まる。それから夢から覚めたように彼女は言う。

「家が燃えたの。火の不始末だろうって警察とか消防の人が言ってた。そうだろうなって私は思った。だって私は母がコンロの火を消し忘れてたことを知っていたから」

 彼女はそう言って部屋から去っていた。私はじっと彼女が消えていったドアと私を隔てる空間を眺めていた。彼女が戻ってくることを期待しているわけではなかった。ただなにか、些細な変化が訪れるのではないかとそんな予感がしたのだ。薄暗いドアから漏れる闇がさらに濃くなるような、ドアから部屋へと繋がるたかだか二メートルほどの真っすぐな通路がぐにゃりと歪むような変化。しかしそんなものが訪れることはなかった。

 どうして、私を置いて行ってしまえるのだろう、といつも思う。私には決してそんなことはできなかった。彼女を一人残してどこかへ消えてしまうなんて。私たちはこの異国の地で、この見知らぬ言語で溢れた街で、ふたり肩を寄せ合っているのではないだろうか。もしかしたら彼女にはこの街に帰る場所があるのかもしれない。私がそうであるように。