マンションに戻り、私は下ごしらえを済ませておいた食材たちで夕食の準備を始める。彼はいつものようにまだ帰っていない。ふたりでこの街に住み始めたころ、夕食までには帰ると、だから一緒に食事をしようと約束をした。しかしそれが守られたのは初めの一か月ほどの期間だけだった。

 スーパーで買ってきて解凍した海老とさつまいもや椎茸、オクラなどを小麦粉、卵、水を溶き合わせて作ったころもにくぐらせ、油で揚げていく。ずいぶんと上手になったものだと、羽衣のようにきれいに揚がった海老を見て自画自賛のように思う。この街へ来てから料理くらいしかやることがなかった。だから自然と細部までこだわるようになり、調理器具も揃え、日々繰り返し作りつづけた。料理は嫌いじゃなかった。目の前の食材に対して、適切な下ごしらえをし、適切な組み合わせで、適切な調理をしていく。煩雑とした食材たちの無駄をそぎ落とし、調和させていくその工程が好きだった。

 それに彼も私が料理に凝ることを良く思っているようだった。彼は私に家庭的な女であることを暗に求めていた。だから私が彼の稼いだお金でずっと家にいることに満足していたし、私が料理に熱を入れることを愛情表現の一種だと思っている節があった。それに比べたら、冷めた料理を一人で食べることは彼にとっては些細な問題らしかった。

 一通りの食材を揚げ終わり、あとは白米が炊き上がるのを待つだけだった。炊飯器に目をやり、3分という表示を確認する。私はダイニングキッチンから、白色LEDの人工的な光で照らされた部屋を眺めた。文句のつけようがない部屋だった。ふたりで暮らすには少し狭いが、ふたりでいることはほとんどなかった。ここは私だけの私のために彼によって作られた空間に思えた。私の心のようだと思う。

 ふいに玄関の方で音がして、ドキリと心臓が跳ねる。勘違いではない。ドアの鍵が開けられ、彼が帰ってきた。

 なぜ、今日に限って、と思う。体にはまだはっきりと彼女と体を重ねた際に移った熱の跡が、持ち去られた恋の欠片がはっきりと残っていた。私の身体には洗い落とせない返り血のように彼女の熱がまとわりついている。

「飲み会がなくなったんだ。××さんが体調を崩してしまったようでね。インフルエンザかもしれない」

「そんなの聞いてないわ」と私は言う。なるべく体温を落として話す。

「なんのこと?」

「飲み会があるだなんて聞いてない」

「連絡は入れたよ。昨日、メッセージを送った。知らなかった?」

 そういえばメッセージが入っていたかもしれない。ここ一か月ほどスマートフォンは彼女との連絡手段以外に使っていなかった。そのため通話以外の通知は煩わしいだけなのですべて削除していた。

 顔を合わせることもほとんどない日々なのに、こういった連絡だけは送ってくる。彼にとってはこれが誠実さであり、愛情表現の一種なのだろう。

「なんにせよ、夕飯は食べるのでしょう? あなたの分も用意してある」

「それはよかった。着替えてくるよ」

 彼はそう言って寝室へと行った。象徴的にふたつのベッドが並んだ部屋。彼はいつも私が眠っているベッドの横で同じように眠りについているのだろうか。いつしか彼が帰ってきた際の物音で目を覚まさなくなっていた。段々と自分以外の人間と暮らしているという感覚が薄れてきている。しかし私の他に誰かがこの部屋に住んでいるという痕跡がある。朝、しわの寄ったベッドシーツ、無造作にめくられた掛け布団、流しに置かれた食器や、毎日絶妙に位置が変わっている玄関のスリッパ。目には見えない何かがこの部屋に住みついているかのようだった。

「この国には慣れた?」

 夕食の席でふと思い出したかのように彼が言った。私は一瞬彼の言葉の意味がわからなかった。ここは私にとっては異国で、そんなふうに考えたことがなかったのだ。私は口に含んでいたさつまいもをゆっくりと咀嚼し、飲み込んだ。

「どうだろう。少しは」

「言葉は?」

「言葉?」

「そう、この国の言葉はわかるようになった?」

「いいえ、まったく。この歳から新しいものを勉強するのは難しいわ」

「ふうん、なるほど」

 彼はそう言って、白米を口に運んだ。この人の所作を見ていると数学の関数曲線を思いだす。変数Xの値が一意に定まれば、それに応じて変数Yの値も一意に定まる。きっと彼自体が大きな関数によって作られているのだろう。いや、人間がそう作られているのかもしれない。もしくは世界や運命のようなものでさえも。私の行動が変数に代入される一意の値となって、大きな運命の流れのようなものを決めているのかもしれない。

 突然、彼が理解のできない言葉を発した。私に向かって手を差し出している。

「しょうゆを取ってと言ったんだ」

 私は彼にしょうゆを渡した。彼は小皿にしょうゆを注ぎながら言った。

「君もこの国の言葉を覚えた方がいいよ。何かと不便だろう。それではいつまで経ってもよそ者だ。僕が以前、君の国でそうだったようにね。だからこれから僕はこの国の言葉で君と話すことにするよ」

 そう言って彼はペラペラと饒舌に何かを話し始めた。私の知らない言葉で。

 彼は身振り手振りを交えながら、30分ほど淀みなく話し続けた。始めのうちは私も彼の言葉を理解しようと努力した。音のイントネーションから基本的な文法を想像し相づちを打ったり、手話話者との会話のように彼のジェスチャーに注目し彼の言わんとしていることを察しようとした。しかしそれは不可能であるとすぐに気づいた。私には基本的な文法も単語も何もかもに対して無知なのだ。そしてそもそも私はこの国の言葉を、覚える気などないのだ。学ぶタイミングならいつでもあった。それでも私はあえてこの国の言葉を知らないままでいたのだ。

 夕食後も彼は私の知らない言語を話した。食器を洗う私に向かって上機嫌に何かを話したり、シャワーを浴びた後、ふたりでテレビを見ようと言って、私は彼の隣に座って眠くなるまでバラエティー番組を見た。話されている言葉も映し出されている文字も理解できなかったが、内容は大まかに理解することができた。レギュラーメンバーとゲストがミッションやゲームを行いながら競う形式の番組だった。どこの国も同じようなことをやっているのだと思った。

 奇妙な時間が過ぎていった。バラエティー番組を見て、それからテレビドラマを二人で見た。彼らの話す言葉は何ひとつわからないのに、やはり不思議と話の筋は理解できた。流行りのドラマなのだろうか。そういう雰囲気を感じる。美しい顔をした男性が雨に打たれながら、美しい顔をした女性を探し回っている。ふたりはまだ恋人同士ではない。それなのにお互いがお互いを求めあっている。そのことに二人は困惑し、女性は立ち去り、男性はそのあとを追う。

 ドラマが終わる前に、彼は私の手に触れ、寝室へ行こうかと言った。もちろん彼の言葉を正確に理解できたわけじゃなかった。それでも彼は私がここ数年で理解しようと努めた唯一の人だった。手の触れ方、その温度、合わない視線、潤んだ声。彼のことを一番理解しているのはおそらく私だろう。

 奇妙な浮遊感を持った足取りでベッドまで行き、仰向けで横になる。そのまま浮かんでしまいそうな私の体を彼が押さえつける。彼が私を身軽にし、私は彼の重りを取り払った。私たちに羽があればどこまでも飛んでいけるだろう。そんな気がした。彼の唇が触れ、私の肉体は深い眠りから覚めたどこかの姫のように解放される。

 私はずっと何を望んでいたのだろう、と肉体から隔離された遠い夢のなかで思う。それは思うという表現が適切なのか定かではないようなささやかな揺らぎ。本当は言葉ですらないものを私が──私の肉体が理解するために言葉に変換したもの。

 肉体が目を覚ましている間それは眠り、肉体が眠っている間にそれは目覚める。私の言葉ではそれを夢と言う。ではなぜ私は今、夢を感じることができているのだろう。水底から見上げるようにして、私は私の肉体が波打つのを見ることができる。私の肉体が感じているであろう快楽を目にすることができる。彼女は彼の一挙手一投足に肉体を反応させ、激しく彼を求めている。渇きに喘ぐ砂漠の花のように。なんて滑稽なのだろう。自宅の庭をささやかなドリルで穴をあけてダイヤモンドを探すようなものだ。

 また遠くで何かが揺らいだ。それは私ではない何かだ。今度は地響きのような大きなうねりが暗闇のなかから伝わり私を揺らす。鐘の音だ、と私は直感的に思う。反響するものがないせいで妙な響き方をしているが、鐘の音で間違いないだろう。私は音のする方へ泳いでいく。

ここは水中だった。もしくは水中に似た別の空間だ。辺りは暗いが、完全な暗闇ではない。光源があるとすれば、それは水面にある彼女の肉体だった。しかし鐘の音はもっと深いところで鳴っている。これ以上進めば、光源は失われるだろう。しかし恐怖はなかった。あれが私の帰る場所だとどうしても思えなかった。

 水の中をゆっくりと進んでいく。体が軽い。両手でゆったりと水をかくだけで数メートルは進んでいくような感覚があった。私は肉体を置いてきたのだろうか。あの牢獄のような肉体を抜け精神体となったのか。しかし私には手も足も胴体もある。これらは便宜的なものなのだろうか。それともずっと檻の中に閉じ込められていたせいで、私も檻と同じ形になってしまったのかもしれない。

 私が泳ぐ先でぼんやりと光が灯っていた。一段分だけ深くなったところにひらけた場所があることがわかる。明かりはその少し上あたりで、ゆらゆらと揺れながら浮かんでいた。

「スノウ」と私はつぶやく。彼女は何を見ているのだろう。物悲しそうに彼女はじっと暗闇を見つめている。彼女がゆっくりとこちらを向いた。水の中で彼女の赤い熱帯魚の尾びれような前髪が揺らめいた。

「来てくれてありがとう。待ってた」