【短編小説】スノウ④
「来てくれてありがとう。待ってた」
私は、私の意思で来たわけじゃないと首を振ろうとした。しかし彼女の見つめていた先が目に入って、私はその様子に意識を奪われた。
「うん、私が住んでいた村」と彼女は言った。みずうみの底に沈んだ村。
小さな村だ、と思う。暗くて全貌は掴めないが、一本だけ村の外へ通じる道路があって、その内側に広がるように住宅や、コンビニエンスストア、ささやかなガソリンスタンドなどがある。きっと村の大部分は畑や、田んぼだったのだろう。水の中に沈んだ後では荒野のように何もない空き地が至る所に広がっていた。また遠くで鐘の音が聞こえた。それはゆっくりと質量を持って、私のもとへと伝わる。ただ鐘はどこにも見当たらなかった。大きな鐘がついた教会なら目立つはずなのに。
「行こう」
彼女はそう言って、村に足を向けて上へと泳ぎだした。私は「どこへ」と聞いた。彼女は何も言わなかった。口では説明できなことの答えから逃げるように、彼女は泳ぐ速度を上げた。
私は今、どこで何をしているのだろうか。目の前で彼女が手足を使って水をかくたび、無数の白い泡が生まれて、私の視界を覆った。泡の隙間から彼女の素足がのぞく。彼女の足をこんなにまじまじと見たのはこれが初めてだということに気づく。指が五本あり、それぞれに控えめな爪がついている。それらはぎゅっとまとまっていて、足の裏にしわを寄せ、水をかき混ぜ白い泡を作る。そんなささやかな動作に私の胸はいちいち痛んだ。もうすぐ会えなくなってしまうのだろう。完璧な瞬間の到来を感じるたび、ここが現実世界ではないということを知る。
不意に身体に重力を感じて、私が地に足をつけて立っていることを認識する。ハッとして辺りを見回すと、彼女は私の少し先を歩いていた。髪や服は水から上がったあとのようにぐっしょりと濡れている。それは私も同じだった。前髪は額に貼りつき、服は水を吸って重く膨らんでいた。
「ここはどこ?」
私はそう訊ねながら、ここが先ほど見ていた村であることを知った。彼女が住んでいた、そしてみずうみの底に沈んだ村だ。
「うん、そうだよ」と彼女はつぶやいた。
なら今はみずうみに沈む前ということなのだろうか。私は過去の村をこうして彼女と歩いているのだろうか。
ぽつぽつと家が点在していて、その間を埋めるように田んぼや畑がある。小さな人の手が行き届いていな林があり、その奥にはまた田んぼと畑と民家がある。田んぼは水が抜かれ、畑には干からびた白菜や大根が放置されていた。時間が止まっているかのように、人の気配はない。時間は夕方で、空は曇っていた。
彼女が私の数歩先を歩き、私はそのあとをついていくように歩いた。次第に彼女がどこへ向かって歩いているのかわかった。教会だ。この田舎の村に似合わない文字通り頭一つ飛び出た建物。何百年も前からずっとそこにあったかのように、時代の流れをまるで感じさせない建物。
「神様って本当にいると思う?」
私は何も答えることができずに、黙りこんだ。整備が行き届いていない、所々ひび割れた道を歩いている。小石とアスファルトがこすれる音だけが耳に届いた。もしも言葉がない世界だったら、こんな沈黙も日常なのだろうか。その世界ではどのようにしてさびしさを伝えるのだろう。言葉にはできないことを、あなたのことを理解して、受け入れているということをどのように伝えるのだろう。
「物心がついたころには、神様が本当はいないということを私は理解していたと思う。それは私の周りにいる子供たちも同じで、例えば神様のことを茶化したり、信じている人のことをバカにしたりとそういうことがする子がいた。私と同じクラスににね、神様を信じている女の子がいたの。その子は私の村にある教会とはそもそも信じている神様が違ったようだけど。その子は規律で食べられないものがあったり、お祈りの文句が違ったりしてた」
ちらちらと雪が降り始めた。世界がまた一段と静かになった。あと数分もすれば、もっと降りだすだろうと思った。こんなびしょ濡れの格好では風邪をひいてしまうのではないかと私は心配した。しかし私も、そして彼女も寒さを感じていないようだった。私はゆっくりと降りてくる雪を手のひらに乗せた。その雪はいつまで経っても溶けることはなかった。
「そもそも熱心な信者というのが少なくて、村のほとんどの人は信じる神様がいなかった。それもあって、彼女は異質ではあったけど、あからさまな差別のようなものはなかった。それでも子供たちの間ではささやかないじめの矛先でありつづけた。給食の時間に食べれないものをあえて彼女に寄こしたり、物を隠してその行方を神様に聞いてみたら? なんてよくわからないことを言ったり」
私たちはいつの間にか教会の前にいた。村のなかで一つだけ建築様式が違う建物は異質だった。斜面の急な三角の屋根でそのてっぺんには十字架が乗せられていた。十字架の下にはぽっかりと空間があいていて、そこに人の背丈ほどの大きさの鐘があった。古く全体的に錆びていて、これが本当にさっき水の中で聞いたような音を鳴らすのか疑問だった。
「それでも彼女は文句を言うどころか、怒りや苛立ちすら外に出すことはなかった。ただじっと受け入れつづけていたの。まるで雪が降るのを、雪が自らに積もっていくのをただ眺めるみたいに」
降る雪片が次第に大きくなってきた。この雪は積もるだろう。そして辺りを真っ白に染め上げるのだ。まるで初めからそうであったかのように。
「彼女はそのうち転校したわ。いじめが両親の耳に入ったみたい。今、ある程度大人になってから思えば、引っ越すのはきっと大変だったと思う。経済的な事情もあるだろうし、彼女たちはどこへ行ってもよそ者であることは変わりなかったと思うから。どうであったにせよ、彼女はいなくなった。そして誰かが彼女の代わりに雪を被らなければいけなかった。世界はそういうふうにできているの。水が高いところから低いところへと流れていくように、積もった雪を隣の家の敷地に押しつけるように。誰かが、それを受け入れなきゃいけないの」
雪が本格的に降り始めた。私は子供のころに買ってもらったスノードームを思いだした。雪がほとんど降らない地域に住んでいたから、当時は雪が珍しくてたまらなかった。小さな街のジオラマがガラスでできた球体のなかに入っていて、その球体をひっくり返すと街に雪が降った。その様子はとても幻想的で何時間でも眺めていられた。そして大人になったら雪の降る街に住みたいと願った。
「彼女には神様がいるから、あんなひどい仕打ちに耐えられたのだと思った。じゃあ信じる神様のいない私はどうすればいいのだろう。神様が本当にいるのだとこの目で見ることができたなら、私はそれを信じることができたと思う。でもそんな奇跡は当たり前だけど起きなくて、だから信じている人たちに、あなたは何を信じているのか、聞いてみようと思ったの。一番身近にいた人は母だったから、まずは母に聞こうと思った。でももうその頃にはダムの建設が始まっていて、母はその反対活動にかかりきりだった。でも他の誰かに、神さまが本当にいるかだなんて聞いて回るのは、なんだかとてもいけないことのような気がしたの。だから私はできるだけ教会に通うことにしたの」
彼女はふっと小さく息を吐きだした。その息は透明だった。これほど雪が降る世界で、透明な息を吐くということがこんなにも異様な光景であるのかと私は思った。彼女は懐かしむように、目の前の建物を眺めていた。まるで記憶を重ね合わせるかのように。
「教会に通うにつれ、私なんかよりもずっと年上のおじいさんやおばあさんが神様を信じているということに気づいたの。彼らは私の五倍以上も生きているという事実を当時は上手く受け止めることができなかった。今だってそう。私の人生を倍にしたって彼らの人生には届かない。そういう計り知れない時間の長さが怖くなって、よく布団を頭までかぶって、ぎゅっと目をつぶっていた。永遠のように思える生と不可逆的な時間の流れを押し止めるように。彼らはその長い生のなかで、私が永遠と見紛う生のなかで、何を見つけたのだろう。神様の奇跡、もしくは神様にしかなせないような所業を見たのかもしれない」
彼女は「こっち」と指をさして歩きだした。私はそのあとを黙ってついていく。少し歩いた先で、真っ黒な炭と化した、小さな平屋建ての民家があった。ブロック塀に囲われて、その内側にはこじんまりとした庭があった。
「ここだよ」
まるで友達に自宅を紹介するみたいに彼女は言った。私はその生々しさに言葉を失っていた。空から舞い落ちる無数の白でも漂白することのできない黒。
「誰も、亡くなってはいないんだよね?」
不安になって私はそう訊ねた。周りを見回すが、火が燃え移ったような形跡はない。それどころか、火事などなかったかのように平然としている。
「うん、人はね。ご近所さんとは少し距離があったし、すぐに火は消されたらしいの」
私は何も言わずに、じっと押し黙って、庭の隅にある黒焦げになった小さな小屋を見つめた。その小屋の前には餌を入れるためのステンレスの皿が象徴的に放置されていた。
「私の言ったこと覚えてる?」
どうして私は何も言えないのだろう。私には黙ることしかできなかった。
「どうして考えが及ばなかったんだろう。彼が私にあまりなつかなかったからかな。でも死んでしまえばいいだなんて思ったことなかったのに」
「あなたのせいじゃ、ないよ。誰かがタバコをポイ捨てしたのかもしれない。ふつうなら止まるはずの火がコンロの故障で上手く止まらなかったのかもしれない。窓を閉め忘れて、風で膨らんだカーテンにたまたま火がついてしまったのかもしれない。もしくは悪意を持った誰かが意図的に火をつけたのかもしれない」
「そうだね。でも犬は死んだの。何の罪もなかったのに」
私は彼女の身体に触れた。私の思いを預けるように。私も彼女の温度がなかった。いつの間にか私たちは死んでしまったのかもしれない。それならそれでよかった。死んでもなお、こうして彼女と身体を重ね合わせることができるのなら、なんでもよかった。
「そのすぐあとだよ。政府がダムの建設を本格化させて、この村はみずうみに沈んでしまったの」
これから私たちはどこへ行くのだろう。
「どこまでも行けたらいいのだけどね」
彼女は言った。私はぴったりと彼女に身体を寄せる。
「ありがとうね」
夢はそこで終わった。