【短編小説】スノウ⑤
激しい動悸がして目が覚めた。ついさっきまで触れていた、彼女の身体の感覚が、まだ皮膚に残っている。体は気怠く、ぐっしょりと汗で濡れていた。めまいがする。隣のベッドには彼はいない──彼女もいない。布団は捲れたままになっている。
私は起き上がり、ふらつく。吐き気がした。今、何時だろう。閉め切られたカーテンの隙間から日の光が差しこんでいる。
外では鳥が鳴いている。車が走る音もする。そしてリビングからはニュース番組だろう、私に理解できない言語で話す人の声がする。寝室のドアに手をかけ、なぜテレビが点いているのだろうと思う。昨晩はテレビを点けていたが、寝室へと向かう前にたしかに消したはずだった。
私は寝室を出て、リビングへと歩いて行く。空耳ではない。たしかに音がする。恐る恐るドアを開けるとリビングには昨日と同じようにソファに座った彼がいた。彼は私に彼の国の言葉でおはようと言った。
それから彼は昨日と同じように、手招きで隣に座るように促した。その際に発せられる言葉はどれも理解のできなかった。私は彼の言うとおりにした。それから私の方を見て、何かを言った。大したことではないだろうと思って、私は聞こえないふりをした。
そのとき、ずっと手に握りしめていた、スマートフォンが着信音とともに震えだした。画面を見ると、彼女からの電話だった。私は震えるスマートフォンを持って、トイレへ急いだ。彼はまた何かを言ったが聞こえなかった。
トイレに入りカギを閉め、私はスマートフォンをもう一度確認した。間違いない。彼女の電話番号だった。夢は、偶然ではないという確信があった。きっと彼女も同じ夢を見たのだ。私たちの夢は繋がったのだ。
私は応答ボタンを押し、スマートフォンを耳に押し当てる。何かを言っているが、上手く聞き取れなかった。電波の問題だろうか。私はそう彼女に伝えようとして、奇妙な気配を感じ口を閉ざした。
少しして、ドアの向こうで彼が何かを言った。なぜだか言葉の意味が理解できた。
「電話、出ないの?」
彼は私の理解できる言葉で話していた。
「そのロクでもない女からの電話には出ないのか? って聞いてる」
彼はドア越しでもわかるくらい、苛立ちが混ざったため息を吐きだした。スマートフォンの向こうでは彼女がしきりに何かを伝えようとしているが、私にはそれが聞き取れない。
「僕が仕事をして稼いだ金で、何不自由なく暮らしているのに、それに対する感謝はなく、結局やることは浮気なのか。もう我慢できない。僕がどんな思いで仕事をしているのか知っているか? 君のようなよそ者と結婚して、どんなことを言われたか知っているか? そしてどうしてよりによって女なんだ? 僕はなんだ、異国のレズビアンの女に騙されて、結婚して金を貢ぎつづけていた間抜けか? 何とか言ったらどうなんだ?」
なぜ、彼はわざわざ不自由な、私が理解できる言葉を使って話しているのだろう。大きな声で、わざわざ私に聞こえるように、これまでのことを言う意味があったのだろうか。
「君をしばらくここから出すことはできない。君の浮気が広まって、僕が会社でどう言われているか知ってるか? 嘲笑の的だ。もう離婚することすらできない。すべてがなかったことになるまで、君をここから出すわけにはいかない」
通話はいつの間にか切れていた。私はトイレのドアを開けた。目の前には真っ赤な顔をした彼が立っている。私はそんな彼の前を横切り、窓際まで歩いて行く。彼は相変わらず何かを言っている。売女だとかクソ女だとかそんな言葉だ。
私は窓に手を当て、扉からベランダへと出た。とても綺麗な晴れた冬空だった。雪は降ってはいなかった。