【短篇小説】退花
「人はね、むかし花だったんだよ」と彼女は言った。夕日が落ち始めた公園のベンチに座っていた。足もとにはたんぽぽとハルジオンが咲いていて、彼女はその花を見ていた
「だからむかしはね、人はどこにも行けなかったんだ。ただじっと雨と陽の光を祈るように待ってたの」
彼女はスニーカーのつま先でハルジオンをやさしく触れた。足もとに寄ってきた猫に撫でるように。
「でもね、人は花から退化してしまったの」
「退化?」と僕は言った。彼女はその春のように透明な髪を揺らしてうなずく。
「そう、退化。ずっと動かないで、陽の光と必要な分だけの雨さえあれば生きていけたのに、幸せだったのに、そうじゃなくなった」
「どうして人は花であることをやめたのだろう」
彼女はすっと視線をあげて、遠くの木々を見た。もしくはそのずっと先を見ていた。そこに答えがあるかのように。
「例えば陽の光を栄養にしていたら、曇りの日や雨ばかりの時期は栄養が足りなくなってしまうでしょう? それに耐えられなくなったの」
「だから立ち上がり、晴れている場所を探すようになった」
「そう、あたり。でもね、そんなささやかな足で行けるところなんて限られているでしょう。ましてや空を覆う雨雲の先なんて私たちでも難しい。だからほかの生き物たちを食べることで栄養を補給するようになったの」
「それなら雨も曇りも関係ないから」
彼女はうなずいた。
「でもそれはあとから取ってつけたような理由。本当は花であることが嫌になったの」
あと数十分もすれば日が完全に落ちるだろう。そうなれば僕らはお別れすることになる。子供のころのように、日が暮れたら帰らなれけばいけない。
「私たちは花から人へ退化してしまった。でもね、こうも考えられるわ。私たちは花だったころがあったのよ。ただじっと運命のようなものを祈り待つだけだった生があったの」
彼女と別れてから、彼女は花なのかもしれないとふと思った。僕と会っている間だけ人の姿をしていて、それ以外の時間を鉢植えのなかで空を眺めながら過ごしていると考えた方がなぜがしっくり来た。
彼女が何かを食べたり、どこかへ出かけたりする姿は不思議と想像できなかった。
彼女が花ならどんなに良いだろう。それはおそらく彼女自身も望んでいることだ。
しかし僕も彼女も人だった。今日も生きるために何かを殺し、歩きまわり、憂鬱を吐き出している。ならば、祈るしかないのだろう。人として花のように生きたいと祈る。