例えば彼女がぼくに(わたしに)今日からお前は私の女になれと言ったら、ぼくはよろこんでこの身を奉げただろう(どこに? 誰に?)。従順すぎて不憫な犬のように、愛する者のために死んでいく兵士のように、ぼくはこの身の所有権を彼女に譲り渡す。そうなればぼくが所有しているものは半分ほど残っているこの心のみとなる(もう半分はもちろん彼女が所有している)。しかし意地悪な彼女はぼくにそんなことを決して言ってはくれない。

「体がふたつもあってどうするんだ?」

 ぼくは何も言えない。言わないのではない。言えないのだ。例えばふたり抱き合って眠ること。肩にもたれかかって眠ること。不安のない世界で眠ること。

「眠ることばかりだな」

 どれもぼくが望んでいることに過ぎない。彼女が(誰かが)どんな形であっても、ぼくを受け入れてくれること。ただそれだけがぼくの望みなのだから。

「どうしようもないだろ」

 彼女は言う。その日は雨で彼女はじっと窓辺でたばこを吸っている。ぼくはそんな様子を見て、雨の日でもたばこの火がきちんと燃え続けることを知る。湿気たりしないのだろうか。その咥えた唇を伝って。

 雨は降り止まない。このままずっと降り止まなければ、ぼくらは永遠にここで時間が止まったように過ごせるだろうか。街は雨に沈み、ぼくらも雨に沈み、愛も恋も平和も戦争も何もかも雨に沈む。ぼくはそういう世界で生きていきたかった。ぼくらは等しく無力で、誰から見ても明らかな脅威となるような、畏怖の象徴となるような雲がぼくらを覆っていて、ずっと降り止まない雨を降らせつづける。雨の前ではぼくらは無力だ(雨には言葉も銃弾も役に立ちはしないのだから)。ぼくらはただじっと雨を眺めていた。

 彼女は雨を宿敵かのように睨む。彼女の持たないものはすべて雨によって奪い去られたかのように。彼女の目は細くて、黒くて、光をほとんど通さない。そんな目で見てもらうためにぼくは精一杯の努力で暗くなる。明るさなど身の丈に合わないアクセサリーに過ぎないのだと言うように。

「雨があがったら帰れよ」

 ぼくは「わかってるよ」と雨に向かって言う。わかってるよ、君もずっと降ってるわけにはいかない、わかってる。でももう少しだけ、降っていてくれたっていいでしょう?

 子供のころ、公園かどこかのベンチに座って陽だまりのなかで眠っていたら、突然の雨によって起こされたことがある。ぼくは急いで立ち上がり家まで走った。服も体も、ものの数秒でびしょ濡れになった。雨に打たれながら、ぼくは全力で走った。運動音痴のぼくは案の定曲がり角を上手く曲がりきれず、滑って転んだ。体は泥だらけになったし、服のままプールに飛び込んだみたいにもう濡れようがないくらい濡れていた。

 ぼくはすぐに立ち上がろうとした。でも上手く立ち上がれなかった。立ち方を、力の入れ方を忘れてしまったみたいに。そしてぼくは思った。どうして走らなければいけなかったのだろう。雨を避けることなどできないのに。もうすでに取り返しのつかないくらい濡れてしまっているのに。ぼくは先日見たドラマのヒロインのことを思いだした。彼女も雨に打たれていた。絶え間なく理不尽で暴力的に。ぼくはその時初めて自分の肉体が自分が望む通りのものに近づいたと感じた。

「君は勘違いしてる。私だって怖いさ。この先どうやって生きていけばいいのか、私は一生独りなのか、誰かを愛しても、この欠陥のせいで愛した人を繋ぎとめておけないかもしれないなんてね。ときどき眠れないって言ったら笑うか」

「笑わないし、勘違いもしてないよ」

「じゃあ、どうしてここにいる?」

「君が怖いって思っていることを知っているからだよ」

 ぼくがいるじゃないかとは言えなかった。抱きしめられたくない人を、抱きしめるにはどうすればいいのだろう。抱きしめられたくない人を、抱きしめたいと思ってしまうのはどうすればいいのだろう。

 壊れてしまう。ぼくが彼女に渡せなかった心の半分。ぼくのこころの醜い部分。どうすれば殺せるのだろう。どうすればぼくはぼくを保ったままぼくでなくなれる?

「君はどうしたい」

 彼女はゆらりと立ち上がった。細く白い腕と、たばこを挟んだ指と、長く黒い髪。それらが冬の雨のように力なく垂れ下がった。

「ぼくは眠りたい。君の隣で、君と一緒に。夢を見たい。ぼくらが望んだ姿で望んだ世界で出会える夢を」

 彼女は笑った。雨があがった。