私だけの言葉が欲しいと、この前書いた日記をチャットGPTに聞いたら、それは私的言語ですよと言われた。ウィトゲンシュタインが有名です、と。なので図書館で入門書を借りてきて読んだ。入門書であるから意味の全く取れないところはなかったけど、この本で扱えたのはもとの本の6%ほどだと書いてありくらくらする。

例えば私のなかにさびしさがあって、それを言葉にして外に出したしたとき、それは感情ではなく言葉に(言葉として)回収されてしまう。本来持っていた性質は失われて、文字であればそれは「さびしさ」という4つのひらがなの組み合わせになるし、音であれば4音(?)の音になる。

それを受けとった相手は、共感するなり、否定するなり、何らかの反応を示す。私の「さびしさ」は「反応を引き起こすもの」に変わってしまう。例えば私が誰かにさびしいと言いうときは、抱きしめてほしいときだとすると、さびしいという言葉は「抱きしめて」という言葉と似ているものということになる。もう私のなかの「さびしさ」はその原型もなくなっている。

そういうことが嫌で、なんだか言語化するということに抵抗感を持つようになった。すべての言葉が相手への反応前提の言葉であるような気がして。それが嫌なら黙っているしかない。

私だけの言葉というのは存在しないのだと、当たり前のように書かれていた。それが言語の体系をしているなら、それは解読することができるし、すでに持っている言語の影響を避けられないからだみたいなこと。

私だけのものというのはこの世に存在しないのだろうか? 私が感じた「さびしさ」は感じた時点では私だけのものであるけれど、それを「さびしさ」と呼ぶ時点で言葉(さびしさという語)のもつあれやこれやに飲み込まれてしまう。

私の心というのは言語が作りだしている仮想的なものなのかもしれない。さびしさという言葉がない世界ではさびしさは存在しないだろう。それは痛みという言葉に包摂されているかもしれない。

この本を読んでいていて、チャットGPT(大規模言語モデル)のことをよくイメージしたけどそんな感じ。

ただ私には感情があって、でもそれは言語のなかに取り込まないと認識できなくて、感情そのものを否定しているわけではないと思うのだけど、でもその土台にあった言語をバラバラに崩されて、そもそも土台が言語なのはなんだかおかしいような気がしてならない。

*日記*

朝から雪が降っていた。世界が真っ白になって、なんだかとても静かで、とても良い気分。散歩に行くか悩んで、せっかくだからと傘をさして外に出た。雪というより凍った雨のようで、風が吹くと頬に当たって冷たかった。

近所の家の庭で女の子が走り回っていた。雪が降ってうれしいねと思う。今日は図書館に行こうかなと思っていたけど、車が行くに埋もれてしまっているし、雪の日の運転は怖いので、家でじっとしていようと思う。明日には溶けるのだろうか?と心配になったけど、数日家からでなくたって死ぬわけではないのだ。それなら一生雪の中で閉じ込められていてもいいかもしれない。

こんなふうにちょっと雪が降るだけで、大騒ぎして、どこにも行けなくなってしまうのだけど、雪が毎日のように降っている場所ではどうやって生活しているのだろう? 不思議。飛行機や新幹線でちょっと行けばそういう地域に行ける。そこでは雪が私の背丈よりも高く積もるらしい。不思議。

本を読んで過ごした。本を読むのって面白い。哲学にはずっと興味があって、おもしろいなと思うのだけど、如何せんとっつきにくい。世界中の人がカントやらプラトンやらを知ってる前提で話が進む。だからとりあえずそういったことを大雑把にでも頭に入れないと始まらないので、哲学史の入門みたいな本をamazonで買った。電子で買うか悩んで、こういうぱっと手に取りたい本は紙か……としぶしぶ紙で買う。

この家には本棚がないので、あんまり本を増やしたくない。今はクローゼットの上にある棚?みたいなところに置いている。しかしなんで未だに紙で本を売っているのだろう? ぜんぶ電子にしてしまえばその分値段も下がるのでは?と思う。

でもまあ、そんなことをしたら、色んな仕事がなくなって大変なことになるのだろう。

昼間は白い羽みたいな大きな雪がひらひら降っていた。今はもう降りやんでる。朝の雪はきらきらした光の粒のようだった。見上げると風になびいて四方八方に飛び回る流れ星みたいだった。

雪 私から私は見えなくて足跡だけが幽霊みたいに

短歌


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