日記 散歩、短歌、読み手に寄り添う
今日は晴れてた。晴れてるって素晴らしい。毎日晴れればいい。暖かくなったので外に出ようと思った。午前中に買い物を済ませて、午後に散歩に行った。
図書館まで歩くことにする。車だと10分、15分くらいだけど、歩いたら体感一時間くらいかかる読み。都会に住んでる人はどこかへ行くのによく歩いているイメージがあるのだけど、どうなのだろう。田舎に住んでる人は基本車があるので歩かない。30分くらいなら普通に歩くよという感じなのだろうか。さすがに電車なりバスなりに乗るのかな。
こういうとき自転車が欲しいなと思うけど、たぶん年に三回とかしか乗らないので買うことはできない。欲しいものでいうと私は最近ロボット掃除機がほしい。あと生ごみを冷却したり、カラカラに乾燥させたりするゴミ箱。私は欲しいものがない人間だと思っていたのだけど、こういうものが欲しいんだと最近わかってきた。生活を楽にするもの。
服をこの前買ったけど、本当に欲しかったのかなんだかよくわらない。春と秋の肌寒い時期に上から羽織れるものがなかったので買った。もう当分服は買わないと思う。以前友達が時計が欲しんだよね、みたいなことを言ってた。時計なんて何に使うんだよと私は思うのだけど、どういうわけかみんな時計なり車なりを欲しがる。
それも恋人に誕生日プレゼントとして時計をもらえるようにそれとなくアピールしたというのだからよくわからない。プレゼント文化はずっとよくわからない。エンタメとしてのプレゼントはおもしろいと思うのだけど(プレゼント交換みたいな)、時計とかってエンタメの域を超えてる。私がもらってうれしいものは小説かなと思う。あとはなんだろう、パッと思いついたのは置物(スノードームとか)、花の種とかかな。つまり私がもし誰かにプレゼントを渡すとしたこれらになるということ。
昨今の日本は異常なので春と秋のはじめくらいしか日中は外に出れない。今は気分的に一番外出できる時期なので、なるべく外に出たい。
歩いたのには理由があって、途中にある桜を見たかったから。河川敷みたいなところに桜が並んで咲いていて車で通るときにいつも見ていた。散り始めてはいたけど、まだ綺麗に咲いていた。
桜というかそういう自然のもの全般に対して、どういう感情を持ったらいいのかわからず、いざ見に行くといつも困惑してしまう。やっぱり遠くから眺めるくらいがいちばん美しく見えるというか、私の見方としてはあっているのかなと思う。
図書館では短歌の本を4冊借りてきた。そのラインナップを見たら「これから短歌始めるんですか?」と尋ねられそうだなあと思いつつ、誰にも尋ねられることはない。これから短歌を始めるんですかという問いは正解なのだけど、年に一回くらいのペースで短歌をがんばりたい期みたいなのが私には来る。そのたびに難しくて挫折する。
小説は初めから何も考えずに書けたのだけど、短歌はまったくわからない。まあ読んできた数が少ないのだろうなと思ってる。
みんなも短歌を始めよう!短歌は31音考えればいいだけなので、手間がかからず初めての創作にはぴったりだよ。
何か短歌といま書いてる小説のためになるものが思い浮かばないかなと散歩をしたのだけど、特に何も浮かばなかった。
いま書いている小説は、読者に寄り添って書くということを意識している。いい加減自己満足で小説を書くのをやめないとなと思ったから。しかしそれがまあ難しい。私がどれだけ甘えて小説を書いてきたのか身に染みて感じてる。
まあいいかこのくらいで、わかる人に伝わってくれればいいや、詰めが甘いのはわかるけど仕方ない。そんなふうにいつも途中で投げ出すような形で小説を投稿していた。私自身が曖昧にしているのだから、そりゃあ読み手に伝わらないよなと反省している。
これはなんでもそうで、私はめんどくさくなるとある程度で投げ出してしまう癖がある。そして伝えることをよく途中であきらめてしまう。それって何かと向き合うのがめんどくさいだけなのだけど、もういい加減大人なのだから何でもかんでも逃げていたらダメだよなと思う。
私の小説はこれとこれが繋がりそう、みたいなぼんやりしたイメージから始まることが多くて、そのまま書きだすからそのぼんやりしたイメージのまま小説ができあがる。いままではそれでいいかと思っていたのだけど、それだと読み手に伝わらない。だからいまは書き上げた小説の点と点を繋げるような作業をしている。
どうしてこれとこれが繋がると思ったんですか?という自問自答を繰り返して、どんどん霧をはらって自分の思考をクリアにしていく。まあ、めんどくさい。ふつうはこれを書き始める前にやるべきなのだけど、スタートからめんどくさいことをやると書く気が失せてしまう。それもまた甘えなので、どうにかしたいところではある。
私は誰かのために創られたものが美しいわけがないと思っている。正確に言うと「だれか」みたいな曖昧な意識で創られたものが美しいわけがない、自分もしくは、特定できる個人であるべきだと思っている。なので商業的な創作はあまり好きじゃない。
私は自分のために書いているので、読者なんて知らんと思っていた。いまでもよくわからなくはあるのだけど、甘えてる部分を削るという行為はまわりまわって読者に寄り添うことになるということに気づいた。いつまでも自己満じゃダメだ。
しかしどうしてこんなめんどくさいことをやっているんだろうとよく思う。