忙しいと病む人と、暇だと病む人がいると思っていて、私はどちらかというと暇だと病む人。この年末年始が始まる前は飛んではしゃいでいたのに、いまは暇すぎて病み、無気力な生活をしている。こんな休暇を過ごすなら実家に帰ればよかったかもと思ったけど、たぶん同じように病むのでそれなら自分の家で過ごした方がいい。

そういえば私は年末の一週間前にM-1を見るためにわざわざ月曜日に休みを取って実家に帰った。年末年始に帰りたくなかったというのもある。一石二鳥。そのときは三日、実家にいただけなのになんだか体中の生気を奪われたような感覚になったので、たぶんこれが正解なのだろう。

何でもできるというのは、何もできないのと同じ。

暇すぎて逆に何もできないとき、前に漫画で読んだ「ビュリダンのロバ」という哲学?思考実験?の話を思いだす。簡単に言うと、お腹をすかせたロバの左右に、同じ距離で同じ量のふたつの餌を置くと選ぶことができなくなるという話だったはず。優劣がないと選択できないということ。

話の本質的なところとは違うのだろうけど、これだけ時間があれば、本を読んだり、ゲームをしたり、小説を書いたり、何か新しいことを始めてみたり、何でもできるはずなのに、どれもやる気が起きない。

やりたくない理由を探している。なにをやっても正解がないような気がする。どれも手がつかない。手に取ってみても、どうしても面白く感じない。本はパラパラと数ページ読んでは閉じてを三冊くらい繰り返している。ゲームも同じ。小説は書こうと思って、キーボードに手を置いても文字が打てない。

何もやる気が出ない。でも何もしないで日々を浪費したくない。連休は毎日着実に終わりへと近づいている。そういうときって死にたくなる。でも最近は死にたくなる前に寝てしまうという技を覚えた。だからあんまりしっかり病むことってなくなった。

でも昨日の夜、なぜか夜中に目が覚めてしまった。脳は8時間ばっちり寝て起きた朝みたいに澄み渡っている。そしてふいに雨漏りみたいに「お前の書く小説はおもしろくない」という考えが滲み出てきた。

そこから一時間くらい「おもしろくない」という根拠のない批判みたいなものが続き「結局、私は何者にもなれないのだ」と自己嫌悪に陥った。書きかけの小説はそれでボツになる。そういうことがこれまでに何度もあった。

病みながらどこか自分を客観視していて「久しぶりに死にたいだとか、自己嫌悪になっているな」と思った。そういえば昔は同じようなことでしょっちゅう病んでいたこと思いだす。それが慢性化していたせいで気づかなかったけど、私の病みのひとつはここから来ているのだという根本原因に辿りつけた。

最近は小説を書いていなかったから、精神がそれなりに安定していた。そして長い小説を書くというのは、こういうことと常に向き合い続けることなんだと思いだした。暇だと忙しいという理由で逃げてきたものと向き合わなければいけなくなる。

こういうとき、誰かがそばにいてくれたらいいなと思う。ただ一緒にいるだけで、小さな、それでいて確かな幸せを与えてくれる人。そういうものを結婚だと思っているから、恋愛みたいなくだらないものをすっ飛ばして結婚してしまいたいと思うときがたまにある。

でもそういう感情って一過性のもの。ワンナイトラブじゃないんだから、一時の感情で結婚するわけにもいかないし、そんなほいほい結婚できるわけもない。

歳を取れば取るほど、こういう暇さが生む憂鬱みたいなものは増えていくだろうなと思う。その致死性も。まだ若いのに、何でも知った気になってしまって行動できないのは本当によくないと思う。

つい最近まで、十代の多感な時期を教室という閉鎖空間で孤独に過ごしてきたのだから、今更孤独が怖いことがあろうか、いやない。みたいに考えていたのだけど、歳を取ったらまた違った孤独があるのかもしれない。

結婚だけが正解みたいな風潮のある世の中だけど関係って人それぞれ。結婚以外の孤独を埋める方法はあるはずで、あんな制約と誓約にがんじがらめになった関係性だけが正解なんてありえない。

もちろん他者以外にも孤独を埋める方法はある。趣味が楽しいから結婚とかわけわからない、みたいな人を最近よく見かける。別に好きにすればいいと思うのだけど、趣味って永遠に続くものなのだろうか。そして永遠を奉げるほどの価値があるのだろうか。そんなことを考えてしまう。

もちろんある、あるに決まっている、そうじゃなきゃ報われないと私は思ってる。でも不安になる。私はこのまま一生面白い本に出会えず、本を読むことをやめてしまうんじゃないか、もう二度と小説を書けなくなるかもしれない。この文章だってそう。いつ書く理由を見失うかわからない。

飽きるのが怖い。一度ハマったら一生好きでいたい。だからハマる、好きになることへのハードルが高い。だから好きなものが少ないし、それらを失うことに常に怯えている。

悪循環。このハードルを下げなければいけないといつも思ってる。でもそういうのって難しい。流行りの曲を聞いてみるけど、何を言ってのるかまったくわからない。そういうことばかり。ハードルの高さに偏見が入っているのだと思う。こんなものはくだらないとどこかで思っている。そういう人ってツイッターに百万人くらい住んでる。

時間を無駄にすること、お金を無駄にすることへの抵抗がものすごいあるのかもしれない。だから本当にいいものしか触れたくない。そう思うと初めの話に戻るけど、何もできなくなる。

世の中はコンテンツで溢れている。ロバみたいに草食べて、昼寝して、草原を散歩して、また寝てみたいな生活に憧れる。でもそんな生活にはもう耐えられない。脳は一分一秒単位で刺激を求めている。

もっと生活のテンポを落としていきたいと、以前書いていたことを思いだした。メトロノームみたいに意識的にゆっくり、ゆっくり生きる。刺激を減らす。刺激のない生活に慣れる。完璧を求めない。悪いところではなくいいところを探す。何でもかんでもくだらないと思わない。

ツイッターに毒されている。あんなものはつまらない、くだらないと吐き捨てるより、すべてのものに対して意外と面白いかもと思えた方がいいに決まっている。もう思春期の中学生じゃないんだから、流行り物を嫌うのはやめよう。

まずはTikTokを入れるところから始める?でもあれは刺激の権化じゃんとも思う。

マシュマロ


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