日記 弱音の吐き方がわからない、自分がわからない期
ときどきいろんなことがわからなくなる。どうしてこれまで、このことを気にしないでいられたのだろう?どうやって生きていたんだっけ?
snsでのふるまいがよくわからなくなる。現実よりネットや自分の世界の中にいることが多いから、ネットでの私が、現実の私になっていくような感覚があって、だから余計にネットでの私の重要性が増している。
私のネットでの活動は、ツイッターとnote、あと小説の三つ。基本的に繋がっている人は同じなのだけど、noteと小説で分かれてはいる。ツイッターはほとんど共有しているのでその中間。
この一年はnoteがきっかけで繋がった人がほとんどだった。小説は4年とか5年、同じところで書きつづけているので新しい出会いみたいなものはあまりない。
小説の私と、note私にギャップがあるかもしれないとよく思う。この人はこんな小説を書くんだとか、こんな日記を書くんだって思われるのが少し怖い。私のぜんぶを好いてほしいと思うけど、そういう怖さもあるし、それはちょっと承認欲求が出すぎなんじゃないかと思ったりする。
snsにネガティブなことを書かない、身近な人を傷つけるかもしれないことは書かない、ということを私は気をつけている。ネガティブなことを書くのって自分は何かしら発散されるものがあるのだろうけど、お前はいったい他者に何を求めているんだという気分になる。
他者に期待しないことを美徳として生きていきたいのに、いいね待ちですか、共感されたいですか、さびしくないとか、孤独も悪くないとか言ってませんでしたっけ?となる。
他人の弱音に対して同じようなことを思うことはない。普通に大丈夫かなと心配になるし、私にできることはいいねを押すことぐらいしかありませんが、何かの力になりますようにといつも思っている。
弱音の吐き方がわからないのかもしれない。子供のころに吐いた弱音に対して、理解や共感を示された記憶がないから。だからこんなふうにsnsに依存している。
泣きたい、感情を表に出したいと思う。人から理解や共感されないことがある種のトラウマのようになっている。
snsだと相手の反応がなくても現実ほど気にする必要がない。だからツイッターやnoteでは色々と書ける。自由にくだらないことも書ける。でもときどき、いったい私はなにをやっているんだろうという気分になる。道化でもしているの?誰も望んですらいないのに。
この文章だってわざわざnoteにあげる必要はないし、それをツイッターで宣伝する必要もない。そういうことがときどきわからなくなる。お前のことなんて誰も求めていないのだと、耳元でささやく。
snsや創作をやっているかぎり一生付きまとうものなのかなと思ったりする。結局絶対の安心みたいなものはsnsからは得られないのだ。そういうことに少しずつ気づきつつある。
誰かに受け入れてほしいと思いながら、そんなことを望んではいけないと思っている。他者に何かを求めるな、お前から求められてもうれしくない。
こんな文章を書いても虚しくなるだけだし、言ったことぜんぶブーメランで返ってくる。
欲という欲をすべて失くしたいと思って生きてる。そんな人生生きづらいだけだし、楽しくないというのもわかってる。ただそれ以外の生き方がいまのところ見つからない。どうしたらいいのかわからない。承認欲求がある。承認欲求とは上手く付き合えているつもりだった。
どうして気分が落ちているのだろう。たぶん暇だからだ。暇だと気分が落ちる。私の取説は私が一番よく知っている。
日記を書くのをやめようかなとも思うけど、夜に書くのがいけないんだよとわかってる。じゃあ朝に書くのかと言われたら、朝に書く日記って意味わからなくない?と思う。
うーん、自分がわからない期が来た。定期的にやってくる。私は私が何をしたいのかわからない。
マシュマロ
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