世界がしんと冷たくなり、木々の葉が落ちて、季節が冬に傾き始めるころ、思いだす風景がある。いや、あれを風景と呼ぶにはいささか不明瞭すぎるかもしれない。概念やイメージのようなもっと内向的で、非現実的なもの。どちらにせよ、俺には冬になると思いだす風景がある。それは枯れ葉のなかで燻りつづけるささやかな火のように俺の心の一画を占有するようになる。ある種の狼煙のように俺に何かを、明確な意思を持って伝えつづけた。

 冬は好きだ、と俺は思う。世界に静けさが訪れ、透明になり、孤独を感じる。すべてのものは終わりゆく運命なのだという教訓を得ることもできる。例年、冬は意味もなくひたすら外を歩いた。三年前に買った黒のダウンジャケットと大学時代の恋人にもらった赤いチェック柄のマフラーをつけて。その歩行には何かしらの意味があった。同じ志を持った人があともう少しだけいれば行進と呼ぶこともできたはずだ。しかし傍から見ればこれは孤独な人間の散歩であるし、俺もこの歩行に呼び名をつけるなら散歩と表現する。

 例にもれず今日も俺は外を歩いていた。日曜の昼下がり。幸せな人々なら屋内のショッピングモールや、暖かい部屋で休日の幸福を享受している時間だ。両手をポケットに突っこんで、こんな文章を脳内で書きながら歩いてる奴なんていない。俺は口から象徴的な白い息を吐きだす。いつまで俺はこんなところにいるのだろうか。美味くも不味くもないチェーン店が数件立ち並び、駅へと続くこの街のメインストリートと呼べる道に俺はいる。右に折れれば似たような家が敷き詰められた住宅街あり、その先には濁った川と田んぼがある。どこへ行っても同じなのだ、と思う。俺がこの街から出れない最大の理由だ。

 あれは小学5年のころだったと思う。図工の時間で校庭のどこでもいいから場所を決め、そこから見える風景を描きなさいという授業だった。クラスメイトが仲のいい数人で集まり、次々に場所を決めていくなか、俺は独り校庭の中央に立ちつくしていた。あのころの俺にとって校庭はほとんど宇宙と変わらない広さだった。ふたつのゴールで作られた広大なサッカー場があり、奥にはうんていや鉄棒、砂場がった。周りをぐるりと取り囲むように、木々が植えられていて、それらをまとめ上げるかのように校庭の中央には大きな桜の木が生えていた。

 俺はその広大な世界を見回し人のいなそうな場所を見つけ、そこに向かって歩いた。もうすでにクラスの大半が場所を決め作業に取り掛かっているように見えた。校庭の右上に場所を決め、腰を下ろす。背後にはプールへと続く道があった。周りには誰もおらず、そして校庭全体を見渡すことができた。桜の木があり、その横にはサッカーゴール、奥にはうんてい、鉄棒が見えた。クラスメイトはまばらに散らばり、各々がこの箱庭の世界を切り取る準備をしていた。

 俺は大きく息を吸った。深い海の底から浮上するクジラのように。冷たい空気が肺を満たし、ぼんやりとしていた脳がピリッと引き締まる。脳が冴え、目が覚める。指先まで感覚が行き届いていることを実感する。そして目の前に見知った顔があることに気づく。

「となりいい?」

 と彼は言った。俺はうなずく。それからどうして一人なのかと尋ねた。彼はクラスの中心ではなかったもののこういうときに一人で行動するタイプではなかった。彼は少し考えてから「気づいたら一人だった」と答え、俺の隣に座った。ベンチとは呼べないような平べったい岩の上に二人で座った。彼は小柄だったが、俺は小学生にしては体が大きい方だったのでほとんど身を寄せ合うような形になった。邪魔だから別のところに座れと言うにも他に腰を下ろせそうな場所はなかった。

 その日の授業は特に会話も、作業の進展もなく終わった。教室とは違った息苦しさを紛らわすため、俺はずっと空を見ていた。雲一つない晴天だった。それなのに、何かで遮られているかのように日差しの暖かさは感じず、ただただ澄んだ青があるだけだった。

 その奇妙な時間はこの図工の課題が終わるまで続いた。週に一度、二時間ある授業のなかで、俺たちは少しずつ仲を深めていった。しかし特段目立った会話があるわけでもなく、ただ空がきれいだとか、鳥が飛んでる、絵のこの部分が上手く描けないなどと言った取り留めのないものがほとんどだった。

 当時、クラスでは誰が誰のことを好きだとか、初めてクラス内でカップルができただとかそんな話題で満ちていた。10歳を過ぎ、恋愛感情や性欲というものを少しずつ肌で感じ始めた時期だった。しかし大半は上手く理解しておらず、周りに流されてその新しく発生したイベントを楽しんでいるだけだったと思う。このころはすべてが単純だった。

 一度だけ、彼に好きな人はいるのかと聞かれたことがあった。その質問はクラスの中ではちょっとした流行ワードだった。誰も恥ずかしがってまともには答えないのに、当時クラスの中にいた全員が誰かしらにその質問をされたことがあった。孤立していた俺ですらその例に洩れなかった。くだらないと思いつつ、どこかその問いが持つグロテスクな耽美さのようなものに惹かれていたのを覚えている。

「いない」

 と俺は答えた。嘘じゃなかった。クラスメイトはただのクラスメイトであって、それ以上でもそれ以下でもなかった。そこに幻想を抱こうにも、朝方の夢のように具現的なものとして手にすることはできなかった。

「そう」

 彼は特に興味なさげにそう答え、視線を画用紙に落とした。

「君は?」

 と聞く。俺は彼の好きな人は知っていた。暇さえあれば彼は彼女のこと見ていた。ほとんど無意識的に視線が吸い寄せられるみたいに。彼女の方も彼のことが好きだったと思う。彼女はそれを隠すことなく、かといって熱心にアピールするわけでもなく、純粋な好意を向けていた。

「おれもいない」

 彼はそう言った。そこには嘘っぽさや、照れなどは一切なかった。おそらく嘘をつくこと、そして自らの感情を隠すことに抵抗がないのだろう。

 三度目の授業。そろそろ下書きを終え、教室で色付けを始めなければいけない時期だった。半数はこの寒い屋外にいることをやめ、暖かい教室で絵の具のついた筆を握っている。俺たちはというと、特に会話もせず真面目に描いていたわりには進んでいなかった。今日で下書きは終わりにするようにと授業が始まる前に先生から言われ外に出た。空は灰色に曇っており、本格的な冬の到来を知らせるように冷え込んでいた。手がかじかんで鉛筆が持てなくなるのも時間の問題だった。

「さむっ」

 ささやかな風が吹くたび、彼は独りごとのようにそうつぶやいた。皮膚の感覚が鋭利になり、画用紙のざらつきでさえ針山のように感じた。世界が少しずつ終わりへと近づいているのだと思った。

 早く終わらせなければと自らの絵に目を向ける。図工、特に絵の類は苦手だったが悪くないできのように思えた。この校庭を知っている人ならどの場所から切り取られたものなのかすぐに判別できるはずだ。絵のなかにきちんと奥行きがあり、小さく描かれたクラスメイトたちもその存在を主張していた。

 彼の絵を覗くと、また別の世界がそこにはあった。真ん中の桜の木はやや大きすぎるし、その後ろにあるはずのうんていや鉄棒は明確な意思を持って省略されていた。クラスメイトも当たり前のように描かれておらず、世界の半分を空が占めており、そこには象徴的に鳥が飛んでいた。彼は俺の視線に気づいたようで、同じように俺の絵を覗きこんだ。この稚拙な絵にそんなものが映るはずがないのに、なんだか自分の心の内を覗かれているような気がした。彼は数秒間、画用紙を見つめ、特に感想を述べることなくまた自らの作業に戻った。

 寒くなってきたからか、隣に座る彼の体温を感じる。薄手のジャンパーのなかで少し震える体から発せられている熱を、俺は明確に感じ取ることができた。それはおそらく彼も同じだった。彼はどうしてここにいるのだろうと思う。図工の時間だけの関係。授業外で話すことはないし、態度の変化のようなものも見られない。それはクラスの空気も同じで、俺たちが図工の時間に二人でいることに誰も気づいていないようだった。まるで雪原の中心にあるかまくらのなかにいるみたいに、俺たちは透明だった。

 校舎についている時計を見上げると、あと10分ほどで教室へ戻らないといけない時間になっていた。彼からはもうすでに下書きを終えているような雰囲気を感じるが、俺の方はまだ描き切れていない部分があった。そしていつからか俺の絵を彼がじっと見つめていることに気づく。

 全身がぶわっと発火したかのように熱を持った。頭が真っ白になり、世界から色や輪郭、奥行がなくなっていくのを感じる。そんなことは気にも留めず彼は手の止まった俺の絵を見ている。急かすでもなく、また感心しているわけでもなく、ただただある種の風景の一画として感慨もなく眺めている。

 やめてくれと言うために顔をあげた瞬間、不意に唇に何かが触れた。熱のない、かすかに湿ったなにか。混乱している俺を横目に彼は立ち上がった。そして俺を一瞥し、立ち去って行った。俺が世界の姿かたちを取り戻し顔を上げたときには、彼は校舎のなかに入っていく後姿だった。何かを告げるかのようにチャイムが鳴り、俺は茫然としたまま逃げるように校舎へ走った。

 その後、6年に進級したタイミングで彼は、どこかへ引っ越した。急に決まったことなのだと、新しい担任の先生がなぜか申し訳なさそうに言っていたのを覚えている。クラスの雰囲気を見るに誰もそのことについて知らなかったようだった。確かに彼はどこか秘密主義的な部分があったとそのとき思った。おそらくクラスメイトの多くが同じようなことを考えたと思う。

 大人になって改めて見る母校は想像よりもずっと小さかった。どうしてこんなところまで歩いてきてしまったのだ、と思う。いまだったら足がついてしまうようなうんていや錆びた鉄棒、こじんまりとした誰もいない校舎。冬の静けさが辺りを満たしていた。世界樹のようにそびえたっていた桜の木もその象徴性を失っている。端から端まで歩くのに5分とかからなかった。そしてあのとき二人で座っていた岩を見つける。感慨はない。懐かしさすら感じない。俺はずいぶんと遠くまで来てしまったようだと知る。

 ではこの狼煙のように燻っているものは何なのだろう。いや、わかっている。わからないふりをしているだけだ。名前も思いだせない彼、顔ですらもう明確に思い起こすことはできない。それなのにずっと何かを奪われたような、そして何かを与えられたような、あのときの感覚が消えない。どこへ行っても、何をしても、お前の原点はここなのだと、引きづり戻される。

雪原のなかで立ち上る一筋の狼煙のように、例えそれが終わってしまったものでも、かすかな望みをかけて俺はそこに向かって歩き始めるしかないのだろう。