言語化することでからっぽになっていく気がする
何でもかんでも言語化するのはどうなんだろうと最近思う。noteを頻繁に書くようになってから二年くらい経つけど、何というかどんどんからっぽになっていく気がする。
言語化することは散らかった部屋を片付けていく感覚に近い。思ったことや、感じたことが頭や心に置かれていって、それをせっせと所定の場所に片づけていく。収納する場所があるならそこに整理して入れ、ないなら収納場所をつくる。重いものや小さいものには目をつむる。部屋はどんどん片付いていく。
からっぽになった部屋を見てあれ、これで正しいんだっけと思う。現実の部屋は綺麗なら綺麗に越したことはないけど、心や頭の中だとどうも感覚が違うらしい。
また新しいものを入れたらいいじゃないかと思う。インプット。でもインプットってなかなか難しい。まだまだ若いのに何でも知ったような気になるのは本当によくないけど、良いもの、心が動くものってあんまりない。
ただ生きてるだけで色んなものが入ってくる人っていると思う。刺激的な日々を送っていたり、色んな人と会って話したり。
私はどうもそういうことが苦手で、できる限り穏やかで波のない生活を送りたいと思ってる。だから本を読んだりするわけだけど、そういう能動的にインプットをするのは自分の心の状態に左右されて、できたりできなかったりする。
今はできないときなのかもしれないと思いつつ、単純に最近新しく始めたゲームが面白いだけなのかもしれないとも思う。対人ゲームは無理やり喜怒哀楽が動かされるから好き。喜怒哀楽のすべてを数時間で完遂できる。
言語化の話に戻る。
言語化することは、モヤモヤの形を決めることだと思ってる。出来事や考え事のモヤモヤに形を与えて心や頭に収納しやすくする。
でも言語化するということは、言語にならなかった部分を捨てるということで、そして本来あった形を変えてしまうということでもある。それってなんだかとても危険な感じがする。
言語化することで形が決まってしまったら、元に戻すことは難しい。考え方が凝り固まっていくし、決めた形が誤っていたとき面倒なことになる。そして言語化するときに切り捨てた部分が、その物事の本質である可能性もある。一度捨ててしまったものをまた拾ってくるというのはなかなか難しい。
あえて言語化しないで自分の中に持っておくことも大切なんじゃないかと最近よく思う。何でもかんでも言語化して整理して、あれも知ってるこれも知ってるって自分の中に答えを持っておくことも大切なんだけど、何というかそれだと面白くない。
でもツイッターを見ていると、いろんな形の矢が飛んでくる。恋愛のこと、容姿のこと、セクシュアリティ、フェミニズム、知性的なこと、犯罪だったり悪いこと、良いこと、正しいこと。
それらに対して盾や武器として何かしらの解答を持っていないと、とてもじゃないけど耐えられない。だからせっせと武器やら盾やらを雑でもいいからつくっている。別に誰かと戦うわけじゃないのに。
解答を急ぐ必要なんてない。モヤモヤしたものをパンクしない程度に抱えておいて、いつかすっと理解できるその日まで待ってみることも必要なのかもしれない。
あなたは何をそんなに焦っているの?
何をそんなに焦っているのだろう。
マシュマロ
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