多様性について考える
早起きに失敗した。といってもまだ6時半とかなんだけど、ほんとは5時くらいに起きて、公園へ散歩に行きたかった。でももうすぐ外は暑くなって行けなくなるだろうから、文章を書く。
早起きをしてると、朝7時くらいからお店が開かないかなとよく思う。大体10時からで、せめて8時、いや9時でもいい、と思うけど、働く人がいるのでわがままは言えない。
何だかうまく生きれないな、とよく思う。社会は多数派に合わせて作られているから、少数派の人が生きづらさを感じるのは仕方ないというか当たり前なことな気がする。
でもそういうのって世界からはじき出されてるような感覚になるし、私はいないことになっているんだなというさびしさを感じる。
でも最近は雰囲気だけマイノリティの方々に寛容?になっているような気がする。「そういう人もいるよね」的な空気を感じることがある。でもそれと同時に特別扱いされているような気もして、それって本質的には変わってないよなとモヤモヤすることもある。
私はいわゆるマイノリティといわれて、真っ先に名前が上がるようなマイノリティではない。きちんとした名前があるわけじゃないけど、なんとなく少数派を生きてきたような感じがするだけ。
もちろん私が何を名乗ろうが、私の自由なので自己紹介文に書き連ねることもできる。でも実際にそんなことをしたことはない。それは、私は彼ら彼女らとは違うという感覚があって、それなのにそう名乗るのは利用しているようで不誠実な気がするから。そしてやっぱり私は私であるという思いがあるからだと思う。
それに私はそんなに生きづらくないのだと思う。それは社会の一員として生きていきたいみたいな思いがあまりないからで、健康的な精神と肉体があれば一人で一人分の生活をしていくには困らない。
やっぱりみんな社会に溶け込もうとするから生きづらいのだろうなって思う。恋愛についてを聞かれて辛いとか、不当な扱いを受けているとか、私にはそういう経験がない。男性に生まれて、苦労もなく生きてきて、恵まれているのだと思う。だから多少性別やそのたもろもろに違和があっても、まあ別にいっかと生きていける。
心を、社会から距離を置いて生活したらいいのにと思うけど、それができない人もいる。私ができたのだから、あなたにもできるでしょと思ってしまいがちだけど、そういう考えって危険だ。それにみんな、もちろん私も誰かに心を開きたいのだ。だから苦しい。
心を受け入れてもらえない疎外感が生きづらさなのかなと私は思う。
三人でいるのに、二人だけで話している。そういう感覚がずっとある。別にいいさ、興味ないもんというスタンスを取るけど、興味がないということを体外的にアピールしているということはやっぱり興味があるのだと思う。ゲームのキャラデザみたいに自由に自分をつくれるとしたら、三人でいるのに、二人だけで話しているという状況になってしまうキャラを作りはしない。
マイノリティとかそういった、触れづらいものに関しては「そういう人もいるよね」というスタンスを取る人が多いと思う。それかわかったふりをする人。でもそういうのって受け入れてるようで、やっぱりやんわり否定しているような気がする。
私はあなたに興味ありません。なので近づきません、話しかけません、迷惑かけません。なのであなたもそうしてください。
もちろんそれでいいという人も少なくないと思う。私もその一人。誰彼構わず自分を知ってほしいなんて思わないし、マイノリティの人々について理解したいとも思わない。
当たり前だけど無関心さでバランスを取っても、世界は良い方には変わらない。人はみんなマジョリティ性を持っているし、マイノリティ性を持っている。光の当たり具合によってそれが強く見えたり、見えなかったりしているだけ。
自分がいつマイノリティ側に行くかなんてわからない。私はよくそんなことに怯えながら生活している。だからそうならないように社会と距離を取っているのだと思う。
じゃあ、どうすればいいのだろう。やっぱり受け入れることからしか始まらないような気がする。まずは自分を、そして次は目の前にいる人の。
受け入れるということが、実際どういったことなのか、私にはまだイマイチわからない。ぎゅっとハグをするみたいな感覚ではあるけれど、実際にやるわけにはいかないし。
自分を受け入れる。それはいわゆるマジョリティの人も、マイノリティの人も、結局はそこからしか始まらないのかなと思う。
#未来のためにできること