いなくなった人たち
・いなくなった人たちいなくなった人たちに対して何かできることはあるだろうか。出会いの数だけ別れがあるように多くの人が私から離れていった。
ほとんどの人は別れという明確な区切りはなく、朝の霧のように気づけばいなくなっていた。
当たり前だけど、いなくなった人たちに対してできることはほとんど何も無いように思える。もう二度と会えないのならそれで構わないと思うからだ。
ただ、誰かがいなくなるのは寂しい。寂しいという感情はとても自分勝手だと思う。自ら望んで孤独でいるのに寂しい?笑わせないないでって感じ。
あのとき、きちんとありがとうって言えただろうかなんて思い出す。いなくなった人たちには感謝を伝えることさえできない。
・贅沢な日々
退屈な日々を過ごしている。本当に何にもない日々。何が楽しくて生きてるのだろうか。そのことをふと思い立ったのは高校のころだったけど、未だに答えは出ない。
嫌なことがあれば死にたいなと思うが、死ぬことはない。死ぬことがないから死にたいなんて思えるのだろう。贅沢な人ね。
よく自分の幸福さが嫌になる。はたから見れば、不幸だと嘆くことは許されないような生活だと思う。お金持ちで、顔が良くてみたいな幸福さではなく普通なのだ。
普通というのはとても素晴らしいことだと思う。でも普通な人というのはこの世にそもそも存在しないので、普通な人というのは普通さとのギャップで苦しむことになる。
自分の幸せを他者や世間の価値観に左右されているようじゃいつまでたっても幸せになんかなれないぞ、と思うのだけど、やはりなかなか難しい。
幸せそうな人は自分より幸せに見えるし、自分より不幸せな人というのは目に入らない。
・相手の気持ち
感受性豊かなあなたは相手の気持ちがわかります、なんて特殊能力みたいなことを言うもんだから自分の相手への推測がすべて当たるかのように思えてしまう。
こんなこと言ったら迷惑かな、なんて考え出したらいつの間にかそれが正解になっていて迷惑だからと黙ってしまう。
何かを言って後悔するより、言わないで後悔する方が多い。あのとき、もう少し自分の気持ちを相手に伝えることができたら何か変わっていたかもしれないとぼんやり思う。
自分が誰かに好かれるというイメージができない。だから相手の好意をお世辞とか同情のようなものと捉えてしまう。素直に喜べないし、それに合わせた素っ気ない対応になってしまう。
ただの文章のやり取りでも相手の顔が浮かぶ。面倒だと思っていないだろうか、社交辞令ではないだろうか、私に気を使っているのではないか、そんなふうに考えてしまって、そんな表情をした相手の顔ばかり浮かぶ。
自分に自信がないのだ。私の好意は気持ちの悪いものかもしれないという恐怖がある。きっと「そんなことないよ」という言葉に対しても、それは私を励ますための嘘に見えてしまう。
問題の根は深い。
あなたが好きだよ、なんて魔法のような言葉をかけてくれ、その嘘のような言葉を100%信じられる相手を私はただ待っている。