向き合わないという選択肢
何でもかんでも向き合うべきでもないのかなと思ったりする。向き合うことが美徳とされているような風潮を感じる。
もちろん向き合えることは素晴らしいと思う。何事にも。でも向き合わないという選択肢があってもいいんじゃないだろうかと、弱い私は思う。
それに向き合え、向き合えと言われても、向き合えないこともある。心情的なものだったり、純粋に向き合い方が分からなかったり。
向き合おうとする姿勢が大切なのはわかるけど、心情的に向き合えないものと向き合うのは辛い。向き合い方がわからないものと向き合えと言われるのは、見えないものを見ろと言われているような気分になる。
そもそも、〜すべきみたいな考え方は好きじゃない。あなたの考えを押しつけないでと思う。それにそういうのはだいたい正しいから辛い。
向き合うべきものごとなんて存在しないと思う。というか、私は向き合わない、見ないという選択を取りたいと思う。
傍から見たら、劣っているだとか、薄情、理解できないとか、そんな風に見えるかもしれない。というか、たぶんそう見える。私だって人のことをそう見えていた時期があった。
どうしてあの人は向き合わないのだろう。こんなにも自明であるのに。
苦しむことが向き合うことだと勘違いしてしまうことがある。苦しんでないなら、これは向き合っていないのだ。と。
いつしか苦しむことが目的になっているような節さえある。苦しむことが生きることなのだ、苦しんでいる私は優れている、偉い、他人とは違う。
ただ、苦しんだ先に何かあるのだろうか。何かがあるのなら苦しむのも悪くないかもしれない。でも大抵の場合はないような気がしてならない。
明日隕石が落ちることも知らずケラケラ笑いながら生きた方が空は明るいんじゃないだろうか。何年もかけて軌道計算するなり、もしくは隕石衝突によって死ぬことを考えて生きてきて、結果隕石が衝突しなかったら、見上げた空の明るさは一緒なんじゃないだろうか。
頭を空っぽにして生きていきたいと、ときどき思う。それと同時に何も考えなくなったら生きている価値がないんじゃないかとも思う。不安なのだ。必死に受け継いできた心が消えてしまうような気がして。
でも、正直めんどくさいのだ。誰も私に干渉しないでくれと思う。
見てきたもの、向き合ってきたものが価値観を作るなら、それは私が決める。私は私の価値観の中で生きていく。
しかし人と違う価値観を抱えて生きていけるほど強くはない。