今日から仕事なのだけど、休み前あんど休み中に発生した仕事を片付けていたら、一日が終わった。久しぶりに仕事が忙しい。

どんなに節約してお金を貯めても、あと十年以上は働かなければいけない。私は仕事を辞めたい。今の仕事を辞めたいのではなく、もう二度と仕事をしない生活になりたい。

死ぬまで働くとか意味がわからなすぎる。いったい何のために生きているのだろう? このくだらない資本主義社会の小さな小さな歯車になるため?

しかし仕事を辞めるために、がんばって働いて稼ぎます!みたいなことは無理なので、コツコツ働いていくしかない。

***

優しいという言葉は他人にしか使わない言葉で、それは「私に優しい人」と言っているように聞こえてならない。優しさの影に隠れた犠牲をすべて無視している。

できるかぎり善い人でありたい。しかしできるかぎりの範囲が恐ろしく狭い。

***

チェンソーマンを読み返した。善悪ってなんだろうなと思う。

ヨルは快楽で人を殺し、デンジはそれがよくないことだと思っている。だからデンジは「ほら、美味いもん食うおうぜ!」と子供の気を逸らすように、人殺しをやめさせようとする。ただ、デンジはヨルを罰しようとはしないし、そのくらいじゃ友達をやめようとはしない。かといってアサが自分を殺してくれと頼んだとき、躊躇なく殺すこともできる。

たしかに誰が死のうが生きようが基本的には関係ないもんなと思う。チェンソーマンというか藤本タツキは一貫してそういう見て見ぬふりみたいなものを描いている気がする。見たいものだけ見て生きていて何が悪いのか。見たいものがぼやけるよりは良いのか。

***

そもそも見たくないものを見るということが本当にできるのだろうか。結局見るという選択をしているのなら、それは見た方が良いと選択をしているからであって、それは見たいものなのではないか。

↑をそのままチャットGPTに投げたら論破された。

「見た」は事実。
「見ると選択した」は意思決定。
「見たい」は欲求。
この三つは一致することもありますが、必ずしも一致しません。

チャットGPT

ただ、最後には結果(事実)だけが残るのだから、それを肯定するしかないんじゃないのかなと思ったりする。

その態度を取るなら、「見たくなかった」という感情も消す必要はない。
「見たくなかった私」と「実際に見た私」の両方を、同じ自分の事実として置いておけばいい。

むしろそのほうが、「見たくなかったのに見てしまった」という、一見矛盾した経験をそのまま扱えるように思います。

チャットGPT

https://note.com/qa/niko2_5_