【小説】遊歩道 1/4
理想の恋愛とはなんだろう。この歳になってようやくそんなことを考えるようになった。私ももう25だ。色んなことが少しずつわかり、そして同じくらい色んなことが少しずつわからなくなる。そんな年齢。まだまだ若い、でも無知や無垢ではいられない。恋愛だってずっと他人事だったのに、結婚なんて言葉も聞こえてくるようになる。私はこれからどこへ行くのだろうか。これまで必死に歩いてきた道を振り返り、そしてこれから歩いていかなければいけない道の果てしなさにめまいがした。
学生時代の恋愛はほとんど憧れに近かった。今風の言葉で言うなら推しというものになるのかもしれない。夕日に染まる校舎の窓から部活動に励む姿を眺めたり、何かの拍子で言葉を交わすことができたなら、向こう一か月はそれだけで生きていけると思えるくらい飛び跳ねたりと、光物を集めるカラスのように、憧れの人から零れ落ちたものをこっそりと拾い集めていた。
しかしそんなものは恋愛とは呼べないし、もし何かの手違いで恋人同士になれたとしても、そんな関係が上手くいくわけがないことくらいわかるようになった。
大学を出て、正社員で就職し日々淡々と仕事をこなしてお給料をもらう。景気はこれからどんどん悪くなるのかもしれないし、世界情勢は日ごとに不穏になっていく。でも働きやすい職場だ。そして社会にも世界にも特に不満はない。私は恵まれているのかもしれない。運も良いのかもしれない。
だから私は一人で生きていけるだろうという楽観的な予感があった。恋愛して、結婚して、子供を産んで。それだけが幸せじゃないよと誰かが言った。一人でも幸せになれる時代だと。
そんな話を彼にした。高橋悠真。私より二つ年上で、出会ったのはマッチングアプリだった。その日は三度目のデートだった。
「ずいぶんと達観してますよね」と彼は言った。
私よりも10センチほど上にある二つの瞳はゆっくりと流れる白い雲を眺めていた。私から言わせれば彼の方が達観しているように見えるが、それは言わずに黙っていた。
「最近の女性ってみんなそういう考え方をしているんでしょうか?」
すごく年の離れた老人のような言いぶりがおかしくて笑ってしまう。彼はそんなことは気にせずに「まるで人生が地図の上にあるみたいに」と付け足した。
彼の言葉はある種の皮肉のように聞こえたが、そんなつもりは更々ないことをこの短い付き合いで学んだ。どちらかと言えば私がひねくれた取り方をしているのだろう。彼は物事を横一列にきちんと並べてそれを真正面から眺めるような話し方をする。
「どうでしょう。もちろん今、目の前の恋愛がすべて、って感じの人も多いとは思いますけど、こんなふうに考える人も少なくはないと思う」
私の言葉に彼はうなずく。それから「ああ、そっか」となにやら一人で納得したようにつぶやいた。
「僕の聞き方が悪かったですね。美咲さんはどうしてそんなふうに思うんですか? と聞きたかったんです」
私は首を傾げる。「どうして?」
「ただなんとなくですけど、触れなかった部分があるような気がして」
私は曖昧に返事をして黙りこむ。季節はすっかり冬になっていた。今日は二人で美術館へ行き、その後特に宛てもなく公園や住宅地をふらふらと歩いている。木の葉は枯れ落ち、吐く息は常に白かった。私は赤いマフラーに顔を埋めながら、去年買ったベージュのコートのポケットに両手を突っ込んで歩いている。隣を歩く彼は真っ黒なダウンから白く乾燥した手を寒そうにそわそわと動かしている。
私はいつかこの手を握ることがあるのだろうか。男の人の手にしては華奢な手だ。頼りなさそうだ、と思う。私が強く握ればぽきんっと折れてしまうのではないか。そんなことを考えるが首を振る。折れるほど誰かの手を強く握る必要なんてない。
なら彼は、と思う。私のポケットに押し込まれた手を思っているのだろうか。彼からそういったものを感じることはない。じっと自らの内側に押さえ込んでいて、それを恐れているかのようにも見える。
「次は悠真さんの恋愛について聞きたいですね」と私は言った。
彼はふっと笑った。冗談かなにかだと思ったのだろう。少しだけ歩調が早まった。私は彼に合わせて歩幅を広げた。
別に行く宛てなどないのだ。歩幅を広げたところでどこかへ辿りついてしまうわけではない。私たちは閑静な住宅地にいた。高いフェンスで囲まれた中学校があり、外周をぐるりと回るように歩いている。年末だからか平日の昼間だというのに、校内には誰もいなかった。野球場やテニスコートがあり、校庭の真ん中にはサッカーグラウンドがある。校舎があって、その横には体育館があった。中学や高校時代なんて、とても昔のことのように思える。私にもそんな時代があったのだろうか。こんな檻のような場所に閉じ込められていた時代が。
「恋愛経験がないって言ったら笑いますか」
「笑いませんよ。私もですから」
彼はまたふっと笑った。そんなことよりも、私は返事が返ってきたことに驚いた。このまま笑って曖昧に流されるのだとばかりに思っていた。
「それだけです。それだけ」
やっぱり曖昧にして、はぐらかされた、と思った。だから「それだけ?」と聞き返そうとした。でも彼が私の先ほどのだんまりに対し、何も言ってこなかったことを思いだして口には出さなかった。口に出したことが彼のなかの私をつくり、口に出さなかったことで私のなかの私はつくられる。どうしようもないことは口に出さない方が良い。
彼は中学校を見て「何部でしたか?」私に尋ねた。
「吹奏楽です」と私は答える。
「ですよね。そうだと思いました」
「それ以外に選択肢がなかったんです」
「わかります。僕も女の子が入る部活を吹奏楽部以外に知りませんから」と彼は言った。私は笑う。
「今思うと、ずいぶん狭い世界で生きていたんだなって思います」
「そうですね。逆に今は少し、広すぎる」
私は空を見上げる。青く晴れているのに、どうしてか雪が降りそうだと思った。そんな匂いがする。しんと澄んでいて、冷たくて鋭い。それなのにどこか安心する。もう泣かなくて良いのだと。そんな匂い。