【小説】遊歩道 4/4
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母からお餅を取りに来るようにと連絡があった。祖母がお餅をたくさんついて、それを持ってきたのだという。別に要らないのだけどと思いつつ、なら今日取りに行くよと連絡を返した。
彼からの連絡はない。あれから二週間が経とうとしていた。
私はため息をついて、車のエンジンをかけた。何のため息だろう。せっかくの休日が実家にお餅を取りに行くという用事のために潰れることへの苛立ちか、それとも音沙汰のない告白に対する不安、もしくは不満。私はもう一度、今度は自らの意思でため息を吐きだした。考えても仕方のないことは考えないようにしよう。私はサイドブレーキを外し、シフトレバーをドライブに入れた。
アパートのある路地から道路に出るためにウィンカーを出し、車の往来が収まるのを待つ間にスマートフォンを操作し、音楽をかける。彼はどんな音楽を聞くのだろうか。知りたいようで知りたくはない。
国道に出て、それから高速道路に乗る。実家までは車で2時間とかからない。本当はもっと遠くに住みたかったのだが、職場の都合上難しい。私はずっとこの畑と田んぼしかない世界のなかで暮らしていくのだろうか。高速道路の上から冬のさびれた土地をぼんやりと眺めた。
現状に不満があるわけではない。ただどことなく不安があって、その不安の発生源がわからずにいる。腐ったみかんが、同じ箱のみかんをすべて腐らせていくような、そんな不安なのだろうか。なら肉体という箱に幽閉されている私には逃げ場がない。今日行く場所が私にとっての腐ったみかんなのだろうか。そんな考えが頭をよぎり、必死に首を振った。そんなことがあってはいけない。今日のような曇りや雨の日はカビのように良くない思いが繁殖する。
高速道路を降りると、私の生まれ育った街につく。正確には隣街になるのだが、街の雰囲気はどこへ行っても大して変わらない。県道沿いに瓦屋根の民家が立ち並び、ガソリンスタンドやコンビニエンスストアがぽつぽつとある。少し行けばチェーン店のファミリーレストランやファストフード店が道路の両側に軒を連ね、もっと行けば畑と田んぼしかない私の実家に辿りつく。
何がこんなにもさびしいのだろう。実家に帰るたびに思う。この街から感じるさびしさの正体はなんなのだろう。ここに住んでいたころは感じもしなかった。子供のころはあんなに輝いて、大きく見えたショッピングセンターが古ぼけた廃墟のように見えてしまう。栄えていると思っていた中心街が発展から取り残された過去の遺物のように思えてしまう。見慣れた畑と田んぼが教科書で見た戦後の焼け野原と重なる。何が私を変えてしまったのだろう。いったい何が今のこの私を構成しているのだろう。
18のころまで住んでいた実家は変わらずそこにあった。そのことがなぜか不思議で仕方がなかった。当の昔に取り壊されてしかるべきなのだと感じる。
砂利が敷き詰められた庭に車を停め、玄関まで歩いていく。チャイムを鳴らすと、家の廊下をどたどたと歩いてこちらへ向かってくる母の足音が聞こえる。リビングで横になりながらテレビでも見ていたのだろう。そんな様子がありありと目に浮かぶ。鍵の開く音がして、私は一歩分横にずれた。さっきまで私がいた場所を横切るようにドアが開き、そこには片足だけ靴を履きドアを押しとどめるような姿勢の母がいた。私がドアを受けとると、母は靴を脱ぎ玄関の土間から足をあげた。足元には準備しておいたのであろう、お餅の入ったビニール袋がある。母はそれを手に取り、中を確認しながら私へと差しだした。
「お餅と、あと大阪に行ったときのお土産、あとコンビニでブラックのコーヒーが当たったんだけど、いる?」
「うん」
私は返事をして、ビニール袋を受けとった。冷凍した四角いお餅と大阪土産なのであろう真ん中に赤いタコが描かれたせんべい、そして缶コーヒーが入っている。
「もう帰るの?」
「うん。ついでにお墓参りに行ってくる」
後ろめたさへの言い訳のように付け足す。そう言えば母が何も言えなくなるであろうとわかっているかのように。
「じゃあ、気をつけてね。インフルエンザが流行っているから」
「うん、わかった」
私はそう言って、押さえていたドアから手を離す。がしゃんと大げさな音が鳴るドアを背に車まで歩く。助手席にお餅を載せ、振り返って実家を眺めた。大きな家だ、と思う。この広い家で父と母は二人で暮らしている。そんなことを考えると、この世界に救いなどないような気がする。いつか何もかもなくなってしまうのなら、いっそ何も持たない方が幸せなのかもしれない。
真央のお墓は実家から車で10分ほどのところにある。小さな墓地で住宅地や道路から少し離れた場所。ただでさえ世界から見放されたような街の、端っこにひっそりとたたずんでいる。
真央が自殺した高校生だったころ、初めてこのお墓に来たとき人は死んだらこうなってしまうのかと思い、そのさびしさに泣いた。そのとき私の隣には真央のお姉ちゃんがいて、私の思いを理解したように一緒に泣いてくれた。
ずっとずっとずっと泣けるのだと思っていた。いつまでもいつまでもいつまでも枯れることなどないかのように泣けるのだと思っていた。その日、私がどれだけ泣いたのかは覚えていない。覚えているのは私の肩にずっと乗っていた手の温かさだけだった。
彼女のお墓には燃え尽きたお線香と、もう生気のない菊の花が供えられていた。きっと彼女の両親と姉が年末に来たのだろう。私は線香も花も供えずに、彼女のお墓の前で手を合わせた。
贖罪のつもり。
誰かがぽつりと私のなかでつぶやく。
すべてを見捨てているのに、自分だけ幸せになろうとしてる。
あなたを忘れようとしている。
もう何も信じられないふりをしている。
逃げるな。
甘えるな。
愛されるな。
どうして死んでしまうことができたの。
ごめんね。ごめんね。
そうだよ。
うん。
そうだよ。
目を開け、湿った息を静かに吐きだす。もう一度、その黒く冷たい夜のような石に刻まれた名前を見つめる。間違いがないことを確かめるように。重くのしかかる沈黙を破り、歩きだす。振り返りたくなる顔を必死に前へと向ける。零れそうになる涙を唇を噛んで押し込める。足を上げ、一歩踏みだす。踏みだした先が泥沼ではないことを確かめ、脳にその感触を植えつける。もう一度それを繰り返す。
墓地から出て車のドアに手をかけた瞬間、スマートフォンがかすかに震えた。彼からのメッセージだと瞬時にわかった。通知欄の「近いうちに会えませんか」というメッセージをタップして、私は文字を打ち込んだ。
彼から場所と時間の提案が来る。それじゃ遅い。もっと早く会える。もっと早く会いたい、と思う。感情のまま全文を打ち込む。送信ボタンに指先を向けた瞬間、私の頭上をカラスが大きな声で鳴きながら羽ばたいていった。私は大きく息を吸って、吐きだした。打ち込んだ文字をすべて消して、わかりました、という文章とともにスタンプを送信する。既読がつき、それ以降何も返信が来ないことを確認してからスマートフォンをポケットに戻した。
彼が指定した時間までは、私が今から車に乗り、アパートに帰って、それからゆったりとくつろげるくらいの余裕がある。まずは帰ろう。そしてそれから待ち合わせの場所までは歩いていこう。そのあとのことは、そのときまた考えればいい。