未知というわけでもなければ、親しみがあるわけでもない(ぴこさんとの文通)
ぴこさん回!
https://note.com/firm_otter5764/n/n3483c1ad7eae
ぴこさん
妊娠カレンダーを読み返してみました。薦めておいてあれですが、妊娠カレンダーがどんな話なのか全く覚えてませんでした。前の手紙にも書きましたが一緒に収録されてる「ドミトリイ」「夕暮れの給食室と雨のプール」(読まれてるのって文春文庫のやつですよね?)が好きだったという記憶しかなかったのです。
少し私の感想を書こうと思います。
妊娠って得体のしれないグロテスクさがあると思うんです。母親の肉体はふつうに生きているだけでは到底起き得ないような変化を見せるし、妊娠の前には性交があって、妊娠の後には出産があり、母親の身体から別の生命体が出てくる。でも世間ではそういったものに白い布でもかけたみたいに見えなくして、おめでたいこと、人生の最大の幸福のように扱われている。
何でもそうですが、得体のしれないグロテスクさや恐怖を明確な言葉にすることってすごく難しいと思うんです。例えば自分でも説明のつかない悪意のようなものを感じている。それはとても些細なものだし、どこから来て、どこへ向かっているのかわからない。でも自らの身体を行為に向かわせる。
ぴこさんの言うようにこの物語には「目的」も「感情の解決」も「問題の処理」もありません。その通りだなと思いました。妊娠というレールの上にみんなで乗ってしまって、それがただ過ぎるのを待っているだけです。誰も何も求めていないのだと思います。安産を求めているわけでもないし、産まれてくる子供が壊れていることを求めているわけでもないと私は思います。
言葉にするのが難しいですが、例えば誰も産まれてきたくて産まれたわけじゃないじゃないですか。自らが産まれてくるという行動に、合理的な理由なんて結び付けられないと思うんです。合理的な説明ができないものというのはこの世界に確実にあって、そういうものを書こうとしている小説が私は好きです。
色んな読み方があっていいのだと思います。いまちょうどアートとの向き合い方みたいな本を読んでいてそう思いました(「美術は魂に語りかける」という本です)。
そういった視点で妊娠カレンダーについて考えると、私は子供時代の姉妹が病院の裏庭から診察室を覗くシーンがとても好きです。平日の昼下がりで、太陽がやさしく世界を温めている。それなのに診察室の中はどこかひんやりと清潔で、時間はほとんど止まっているみたいに見える。棚に並んでいる器具や薬品は全くの未知というわけでもなければ、親しみがあるわけでもない。
私は小川洋子の書くそういう空間がすごく好きです。
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ぴこさんの手紙を読んで、私とぴこさんは違う価値観を持った人間なんだなと思いました。人はよく共通点を探しますけど、違うところがあるってなんだかいいですよね。自分と完璧に同じ人間って退屈ですから。
それに自分と違う視点を持った他者の大切さというのを今更ながらに感じています。私は「夜と霧」を、強制収容所という極限の場所を描いた本として読んでいました。どうしてこの人たちはこんなに生きたがっているのかよくわからなかったのです。
人がどんな状況でも“意味”をつくりながら生きる生き物であると、ぴこさんが書かれているのを読んで、たしかにそう書かれていたと思いました。一人で生きていると一人分の視点しかないので、見たいものを見たいようにしか見れないんですよね。
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私は子供時代にルールの多さとか、世界の狭さ退屈さなんかに絶望したことなんてありませんでした。それはいまも同じです。世界とか社会、学校のような檻?に対して何かを思うことってないんですよね。そういうものだと受け入れているというか、私には私の世界があるから関係ないと思っているのかもしれないです。
子供のころは特に何も感じてなかったと思います。あのころの私にとってはゲームと小説がすべてで、その世界から引っ張り出されることが死ぬほど嫌だったということくらいです。たぶんいまと同じですね。
だから高校受験、大学受験あたりまではわりとハッピーに生きていたと思います。なので私は大人になんかなりたくないんです。子供のころも、私は大人になんかならないんだろうなって思ってましたし、いまも同じように思ってます。
ぴこさんの言う「一人で立つ」という言葉は、私の「一人で生きる」とは全く違ったもので、私の思う「大人になる」ということと近いのかもしれないと思いました。一人で生きるというのは誰にも頼らないということで、そういうのって子供じみているなと自分でも思います。それでもだからこそ、一人で生きなきゃって思うんですけど、やっぱり子供じみているなって笑っちゃいます。
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美術についてはまだまだ初心者ですらないので、この作品が心に残ったというものはありません。強いて言うならクロード・モネで、モネ展に行ったことが私の美術の始まりでした。難しいことはわからないですけど、こんなにただただ美しいものがこの世に存在しているんだって思いました。
今回見た作品(ちなみに印象派展的な企画展を見に行きました)だと、看板になっている「エドガー・ドガの家族の肖像(ベレッリ家)」は今いる部屋の作品を見終えて、隣の部屋へ行こうと振り返った瞬間に展示されている作品が目に入って「なんかとんでもないものがあるぞ!」って思いました。私の美術館の楽しみ方はそんな感じです。
言葉にならないものを大切にしたいです。美術館にいるときの私の脳内なんて「やべー」「すげー」「なんだこれ」ばっかりです。ずっと言葉ばかり追っていたので、絵画というのは完全に未知との遭遇で、子供のころに戻ったかのようにわくわくします。
何かを理解するには言葉を使う必要がありますが、私が持つ言葉で理解しようだなんておこがましいと思うことがよくあります。かといって言葉にしないと何も伝わらない、とくに手紙のような場面では。
なので米津玄師がなぜ好きなのかと聞かれると困ってしまうんですよね。「いや、だって、好きなものは好きだし……」としか言えなくなってしまうのです。
質問の答えとしては「私自身が米津玄師に含まれているので、好きだとか嫌いだとかそういう話ではない」というものになるのですが……伝わりますでしょうか……
例えば「ぴこさんはご両親は好きですか?なぜ好きですか?」という質問に答えられますか? 案外答えられてしまうのでしょうか。
数学とかのベン図(ふたつの丸が重なるやつです)を想像してほしいです。一部重なる箇所があるとかなら、その部分を切り出して言葉にできるのですが(例えば小川洋子がなぜ好きかならいっぱい書けます)、完全に含まれてしまっていると切り出しようがないというか……
アイネクライネ、いいですよね。アイネクライネはいいです(大切なことなので二回言いました)。ぴこさんに一曲おすすめするなら確かにアイネクライネかもしれないなと思いました。
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きちんと言葉にしようと思うと長くなってしまいます。
最後にに質問というかお願いになりますが、ぴこさんの子供時代や学生時代の話を知りたいです。手紙に書かれてた小学生の頃の幼馴染との話や、お父さんとの話がとても印象に残っています。何でもいいのでというと難しいですかね。良い思い出でも悪い思い出でも、本当に何でもいいのですが、パッと思いついたことを書いてもらえればと思います。そういう記憶がその人を作っているのだと思っています。
にこ