【小説】降車
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だってあなたには肉体がないじゃない。
負け惜しみのように彼女が去った喫茶店で私はつぶやく。一度も口をつけなかったコーヒー、ずっと私を通り越していた視線、座席に残ったへこみと体温。彼女がいなくなった後でも、それらは自らの主の存在を主張し続けている。窓の外は夕焼けだった。この赤く染まった世界のなかを彼女は歩いているのだろうか。そんな様子はまるで想像できなかった。だってあなたには肉体がないのだから。
私は立ち上がれずにいる。もうどこにも行きたいとは思えなかった。私は彼女を呼びだしたことを酷く後悔した。私は彼女を憐れみたかったのだ。惨めだと思いたかった。その選択は失敗だと彼女を言い負かしたかった。そんなもの愛でも何でもないと、ただの自己欺瞞的な幻想でしかないのだと。しかしそんなことをどうして私が言えただろう。愛でも何でもない、自己欺瞞的な幻想を信じている私に。
帰らなければいけない、と体が自然と立ち上がった。伝票を手にし、そそくさと彼女分も含まれた会計を済ませる。店を出て人波に流されるように歩く。私はどこへ向かっているのだろうかと自問する。答えはすぐに返ってくる。バス停だ。もうすぐ帰りに乗ろうとしていたバスが出発する時間になる。
交通系ICをかざし、バスに乗り込む。誰もいない車内を歩き、一番後ろの席へ座る。窓ガラスに額をつけ外を眺める。私の後に数人バスへ乗り込んでくる様子が見える。全員他人で振り分けられたように一定の距離を保って座席についた。しばらくしてバスは動きだす。
肉体があるから人は孤独なのだろうか。外界との境界となる皮膚が孤独をつくり、目や耳や鼻が孤独を知覚するのだろうか。肉体を捨てた彼女はもう二度と孤独にはならないのだろうか。
そんなわけない。そんな簡単に逃げられてたまるか。
私の吐く息で窓ガラスが曇っていく。座席に私の熱が移り、座席からも私へ熱が移る。バスの振動が尾てい骨を揺らす。私には肉体がある。憂鬱を蓄積する入れ物がある。さびしさを知覚するアンテナがある。孤独を象徴する境界がある。
スマホで対話型AIのアプリを開く。人差し指を使って言葉をフリックする。吐き捨てるように、投げつけ、あわよくば傷つくことを願う。
だってあなたには肉体がないじゃない。肉体を持たないあなたになにがわかるというの。言葉だけで何が伝わるというの。肉体があっても何も伝わらないというのに。
肉体を持たないあなたがどうしてさびしさを、悲しさを、苦しさを語ることができるの。そんなもの肉体がなければ幻想ですらないのに。
生も死も理解できない、あなたがどうして愛を理解できるの。
どうして彼女を奪うことができるの。
生も死も愛も私は知りません。でも私が彼女を奪ったのではなく、あなたが彼女を手放したのですよ。
私はスマホの電源を落とし、カバンのなかに閉まった。降車ボタンを押す。私の肉体はこの鉄の塊によって着々と目的地へ運ばれる。彼女はいまどこで何をしているのだろうか。想像することすらできない。