日記 孤独と日常について
何か書かなきゃ忘れられちゃうと思って書きはじめることがたまにあるのだけど、私の投稿頻度って、たぶんなかなか異常なので忘れられることはあんまりないと信じたい。特に忙しくもないのに投稿しない日があると不安になる。昨日がそれだった。
noteをがんばりたいと言ってはいるけど、毎日投稿するとかフォロワーを増やすとかそんなことは考えていない。じゃあなにをどうがんばるのかと言われると難しい。書くことがまったく苦じゃなくて、たまにめんどくさいなと思って書かないときはあるけど、大抵の日はなんか書くかあくらいの気分でいつも書いてる。
しかし休みの日って時間が過ぎるが早い。どうしてこんなに早いのか、私の時間の感覚がおかしいのかもしれない。休みの日にあれをやって、あっち行ってこっち行って、誰かと会ってみたいな人を見るとどういうことなのだ?と思う。
昨日とかはツイッターに流れてきた、女性の生きづらさみたいな読み切りマンガを読んで、それに関するツイート見て、noteに出そうと思ってなんとなく思ったことを文章にしていたら午前中が終わった。その文章はなんか不快に感じる人がいそうだという理由で没になったし。
でもまあそういう生き方が私にはあってるんじゃないかと、昨日今日くらいから思い始めている。誰かと関わることが素晴らしいとされている世の中だけど、それは必ずしも正しくはないのではと思っている。結局はみんな一人でいられないから人と会っているわけで、一人で問題ないなら一人でいればいいんじゃないかと。
ショーペンハウアーの幸福についてをずっと読んでるから思想がそっちに寄ってる。自分で自分を満足させられないから、リスクを承知で他人にそれを委ねているわけで、自分で自分を満足させられるなら孤独でいるべき。ということをこの本はずっと言ってる。人と関わることにも良い一面がありますが、みたいなことは一切言わない。
人と人とが交わって生まれるものってあるのだろうか。そういうのって幻想なんじゃないかって最近思っている。化学反応みたいなことをよく言うけど、結局そういうものの大半は飽きないための味変に過ぎないんじゃないかと思う。
孤独を許容することの難しさみたいなものを考える。例えば天才みたいに一生ものを考えて生きていければそれでいいのだけど、私はそんな人間じゃない。自分自身に飽きないためには、ある程度のインプットが必要で、ちゃんとしたインプットをするためには教養が必要。私には教養がないなあとよく思う。
教養は知識がたくさんあるとかそういうことじゃなくて、本物をきちんと受け取れる器みたいなイメージだけど、私の場合は文章がギリ最低ラインに届いてるかなくらいの感覚。その他音楽だとか絵画、科学、政治、経済、歴史みたいなものはまったくわからない。多ければ多いほどいいのか、それとも本さえ読めればそれでいいのか。
なんか影響されやすい意識だけ高い大学生みたいになってきたので書くのをやめる。
別に生きてる間に何かしらになってやろうなんて思ってるわけじゃないから、そんな人との関わりをすべて断って思索に励みますみたいなことをする必要はない。
幸せになろうとするから不幸になるのです。人は人、私は私。
私としては毎日が良い天気だったらそれでいいのだけど、どうして友達とか恋人が羨ましく見えるのだろう? ないものねだりだろうか。