【小説】ぐじゅぐじゅ
あまりにも失ってから気づくものが多すぎるので、私は何かを失わないとそのものの価値に気づけないのかもしれない。自分の側にあるものには盲目で、遠く離れていってしまったものに無理やりピントを合わせようとしてしまう。耳を閉ざして、目を世界が霞むくらいジッと細めて、微かな光をとらえようとする。だからその霞んだ世界があまりにも儚く見えて涙が出てしまうのだ。ねえ、どうして世界はこんなに美しいの? そう皮肉混じりに問いかけても答えてくれる彼女はいない。
春だ。と思う。厳密にはもうすぐ春、なのかもしれない。それとも暦の上ではもう春なのだろうか。どちらでもよかった。もう春なのだ。その証拠に私の胸は熟れた果実のようにぐじゅぐじゅと膿みはじめている。彼女と別れてから4度目の春だ。
春になるとありもしない傷口から桜の花がわっと咲き始めるような妄想に囚われる。それはいままで何もなかった暗闇に光が当てられ花が浮かび上がるみたいに、一瞬で増殖し気づけば私の視界は桜の花弁で埋め尽くされている。それから今度は脳内でその映像がスローモーションで流される。真っ暗で何もない空間。ありもしない傷口。花壇に咲く花のように、パッと芽が出る。それはいつか見た花が開花する様子のタイムラプス映像のように、滑らかな動きでその無数の花弁を開いていく。ゆっくりと、しかしそれでいて確かな速度で花は開き、傷口を覆っていく。それが何度も何度も脳内で再生される。
次第に私は肺まで花で侵されたような気分になって、息をするのもままならなくなり、死んでしまう、死んでしまうと泣くのだった。しかし泣けば泣くほど目とまぶたの隙間から花が溢れでる。そして私は脳まで花に侵されて植物人間となってしまう。そんな妄想。
花の開花はどうしてこんなにもグロテスクなのだろう。きっと私の身体の成長を思いださせるからだ。自らの身体が得体のしれないものへと変わっていく恐怖。保険の教科書に載っている直立でこちらを見つめているイメージ図とは似ても似つかない本物の成長のグロテスクさ。身体のすべてが曲線をもって歪んでいくのだと思った。いつまで、どこまで歪み続ければ私は完成するのだろうか。そんな不安を私は口には出せずとも彼女と共有していたように思える。そういうことを思いだすのが春という季節だった。
4年前の春に彼女は東京の大学へ入学し、私は実家から通える大学へ入学した。彼女と別れてから、私はずっと死にたかった。大学では一人の友達も作らなかった。死にたいのに友達を作るのは矛盾しているように思えてならなかったのだ。だからすべての人間と等しく距離を取って生活していた。それが死にたさを助長させていることに気づいたのは、ゼミが同じだった女の子から卒業式に一緒に行こうと言われたことがきっかけだった。私は卒業式なんて行かないつもりだった。だからその誘いを断った。入学式だって行かなかったのだ。卒業式に行かないという選択は私にとってとても正しいものだったのだ。その子も私と同じように学部内に友達と呼べる人はいなかった。だからときどき彼女は私を見かけると話しかけてきた。そうすることが当たり前であるかのように。彼女が私と友達になりたがっていたことに気づいたのは卒業式が終わってからだった。
大学入学に伴う引っ越しで私と離れてから、彼女からの連絡はパタリとなくなった。私自身そのことに気づいたのは長い夏休みに入ってからだった。もともと私も彼女も頻繁にやりとりをするようなタイプではなかった。学校に行けば彼女がいて、そこでそれこそただ花が開いて、ゆっくりと閉じるような他愛のない話をした。そこに特別なものなど何もなかった。だから彼女を失ってその特別さに身を焦がすのはおかしなことのように思えた。そもそも彼女が私のものだったときなどなかったのだ。それに彼女を失ったと気づくことが怖かった。
だから私は死にたいと泣いた。完成してしまった身体が死後硬直のようにどんどん強張っていくのを感じた。しかしだからなんなのだ。私の身体が美しかったことなど一度もなかった。産まれてから死ぬまで、私は一生このグロテスクな肉体と精神をひた隠しにしながら生きていくのだ。私の身体のグロテスクさと彼女の喪失がどう繋がっているのかわからなかった。しかしそれらは密接に結びついていた。
彼女から「久しぶりに、会えない?」と連絡が来たのは退屈な春休みの最中だった。その知らせは私をひどく困惑させた。今更どんな顔をして彼女と会えばいいのだろう。こんなになってしまった私を見て、彼女はどう思うだろうか。それでも断る理由が思いつけなかった。
指定されたカフェへ行くと彼女は椅子に一人で座っていた。高校時代は短かった髪が肩にかかるほどまで伸びている。どうして変わってしまったのだろうと思った。私は変わらず、ただただ時間に身体を蝕まれているのに。
「久しぶり」と彼女は言った。私は「うん」とうなずく。私は彼女と向かい合うように椅子に座った。
「先に注文しちゃおっか」
なんの先になのかわからなかったが私はうなずいた。私が「これにする」に紅茶を指さすと、彼女は「うん」と言って「じゃあ私はアイスコーヒーにしよ」と独り言のようにつぶやた。
彼女が店員を呼び私の分の注文まで言った。
最近どう? と彼女が曖昧な質問をしてきたので、私は少し考えてから大学の卒業式があったことを言った。卒業式には行かず、あとで卒業証書や記念品を受けとりに行ったと。その日は雨が降っていたことは言えなかった。
それを聞いて彼女は私らしいねと言い、笑った。彼女はちらりと厨房の方へ視線を向ける。それにつられて私も厨房にいる私の注文を取ったバイトの女の子に目をやった。私はなぜかその子が気になってしまい、彼女が紅茶とアイスコーヒーを持ってくるまで、ちらちらとその姿を目で追った。
「就職はどうするの?」と彼女は言った。
「するよ」
「そうなんだ」
「小さな、何でもないような会社。5個くらい面接受けたけどそこしか通らなかった」
「すごいね。おめでとう」
私はなんて答えたらいいかわからず、運ばれてきた紅茶に口を付けた。熱くて花みたいな味がした。
「わたしね、去年の冬くらいから鬱だったの」
「うん」
「彼氏にふられて、すごく泣いて、そこから一週間くらい何も食べないで部屋に籠ってた。ほとんど倒れるみたいな感じでずっとベッドで寝てた。そしたらバイト先の友達が心配して部屋に来てくれて、病院に連れてってくれた。栄養失調ですって言われて点滴して、家に帰ったけど、やっぱり起き上がれなくて、またベッドで寝たきりになって、病院に行って、鬱ですって言われて、みたいな生活をしてた」
「うん、うん……」と私は言った。肯定でも共感でもないうなずきだった。私の知らない人が二人もいると思った。そして「私は鬱にならなかったよ」と彼女に言いたくなった。こんな支離滅裂で自分本位なつぶやきの真意をすっと理解してくれる人がほしいと思った。
「だから休学中なんだよね、いま」
「そうなんだ」
それから彼女は上手く話せない私の代わりに、色んなことを話した。将来はこういう仕事に就きたいとか、ボランティアのような活動をしてみたいとか、いまの彼氏のこととかそんな話だった。彼女がいまの話をすればするほど、私と彼女との距離は開いた。また花のタイムラプス映像が頭に浮かんだ。花は開いては閉じてを滑らかな動作で繰り返していた。
「雨が降ってたんだ」と私はつぶやいた。
「あめ?」
「卒業証書をもらいに行った日。雨が降ってた。ざあざあ降ってる感じじゃなくて、ぱらぱらって感じで傘をさすかどうか迷って、結局濡れるのは嫌だから傘をさしたの。それで春休みで人のいない大学の事務室に行って、卒業証書を受け取りに来ましたって受付の女の人に言った。立てかけた傘からは雨粒が滴り落ちてて、床がぬれちゃうななんて思いながらその人が私の卒業証書を探すのを待ってた。すごくゆっくり丁寧に話す人だった。花びらが落ちるみたいに見惚れてしまいそうだった。そして私に卒業証書とかが入った紙袋を渡して、おめでとうございますって言ったの。すごくあっけなかった。でもそれでよかった。それでよかったの」
彼女は曖昧にうなずくだけで何も言わなかった。
「今度はどこか行きたいね。高校のころのみんなを誘ってさ」と彼女が言って、私たちは別れた。
一人で彼女のいない街を歩いた。世界はもうすぐ春だった。花で息を吸い込めばどこかで咲いている梅だか桃だか桜だかのにおいが肺を満たした。においはどうしてこんなにも記憶と結びついているのだろうと思った。湖の底に沈んでいる箱を引っ張り上げるように、春のにおいは私の心の奥底から大切に隠しておいた感情を呼び起こす。どのときの何の感情だろうか。開けるべきでないことはわかっていた。でもその箱を私はそっと開けた。なかに入っていたのはぐじゅぐじゅになった恋だった。