日記 動物園には行けない日 愛や恋や幸せ
動物園に行こうと思ったけど行けなかった。体調が悪いとか精神を病んでいるとかではなく、どうしても行きたいと思えなかった。行きたくない。寒いし、どうせ混んでいるし、家族連ればかりだろうし、ひとりで動物なんか見てもおもしろくない、虚しくなるだけだ。そんな言葉ばかりが浮かんだ。
歪んだ自己愛。
過保護に育てられた自覚がある。田舎だったこともあり一人ではどこにも行けず、家に引きこもってばかりいた。連れ出してくれるような人もいなかった。
両親にとっての愛が私を傷つけないようにすることだったのなら、私は愛し方をそれしか知らない。だから自分への愛し方も同じで傷つかないように自らが作った箱庭で囲うことになってしまっているのかもしれない。
もしいつか愛する人ができたら私は、私の箱庭のなかに閉じ込めてしまうのだろうか? でもそれが他者に対する愛じゃないことはわかっている。だから愛がわからない。
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運転中に急ブレーキを踏むとき、母は必ずと言っていいほど左手で助手席に座る私を押さえた。そんな年齢じゃないのに。それが愛なのかもしれないとぼんやり思っていた。でも私もブレーキを踏んだとき、大した荷物も載せてないのに左手が伸びるから、愛でも何でもないのかもしれない。
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アマプラで映画を見た。「わたしの叔父さん」というタイトル。とてもよかった。好き。
映画は余白があればあるだけ美しいと思う。以前は引き算こそがすべてだと思い込んで小説を書いていた。ただ小説の引き算というのは難しくて、純粋に説明不足になってしまうことが多い。
映画は目で見ただけで、主人公がどんな姿で、どこに居て、何を思っているのかだいたいわかる。涙を流していれば悲しくて、顔をしかめていれば怒っている。だから長ったらしい説明とか、くだらない会話とか、音読みたいな心情の語りとか、いらない部分をどんどん削っていける。
逆に足し算は向かないと思う。足し算で重要なのはスピード感だけど人間のスピードには限界がある。だから映画は余計な部分をどんどん削って、それでいて物語の核はストーリで隠す、そんなものを求めてる。
足し算も引き算もいけるのが漫画だと思っていて、小説はそのバランスが大切なのかなと思った。
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「わたしの叔父さん」の話を少し。主人公の女性は、体の不自由な叔父さんとふたりで牛の世話だったりをする農家をして暮らしてる。その女性は「私がいなきゃ、叔父さんも牛たちも死んでしまう」と思い込んでいる(実際にそうなのかもしれない)。
それでも恋人を作ったり、獣医になる夢がある。そんな話。
彼女はたぶん叔父さんのことも農業のことも嫌いじゃない。むしろ好きなのだと思う。毎日決まったルーティーンを守って暮らしていくのも苦じゃないし、それでいいとすら思っている。叔父はたった一人の肉親で、たまにイラっとすることもあるけど愛している。これが私の幸せなのだ。
でも幸せってなんだろう?そんなものが本当に幸せなのだろうか。出会った彼は「君の人生なんだから」なんて言ってくる。いいえ、これが私の人生なのだ。でも本当にそうなのか?そんな疑問を残して映画は終わる。
呪いをかけらたとして、それが自分にとって無害なものだったら、それは果たして呪いなのだろうか。愛がかけた呪いならなおさら。
呪いは呪いだよと周りは言う。でもその呪いは私を他の呪いから守ってくれていたりする。きっと呪いのなかの方が生きやすい人もいる。濁った水の方が息がしやすい。でも澄んだきれいな水のなかで暮らしてみたいと願うことは罪なのだろうか。
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きっと愛も恋も幸せもぜんぶまやかしなのだと思う。愛も恋も幸せも、得てしまったら後は失うしかない。そんなものが愛や恋や幸せでいいのか。
もし愛や恋や幸せが定義できてしまったら、いままで愛や恋や幸せだとされていたものがすべて偽物だったということになってしまう。それでいいのか。そんなことを考える。