日記 日記の皮を被った何か
ここ最近、毎日日記を書くことを習慣づけていて、もうかれこれ20日くらいはnoteに投稿している。仕事は今日まで休みで、明日からはふつうの日常に戻るので毎日投稿は今日で最後かもしれない。
いまはなんとなくnoteをがんばりたい時期だった。たくさん読んで、たくさん書く。良いなと思った記事にスキを押して、良いなと思った人にフォローを飛ばす。何人か相互フォローに慣れた方が増えたので、目的としては達成かなと思ってる。
やっぱり何かを毎日続けるのは私には向いていない。そんなことはわかっていたし、これまでも何度かやってきて失敗してきた。毎日日記を書いてる人はすごいなと思う。書きたくない日は当然あるだろうし、日記よりも優先すべきことが発生することだってあるはずなのに。
でも継続という話なら私はなんだかんだ三年くらいはこんな感じの文章を途切れず書きつづけている。それってまあなかなかできないことだろうから、そんなに悲観的になることもないのかもしれない。
誰にも見せない文章を書こうと思った時期があった。noteとかツイッターとか人の目に触れさせない文章。でもそれは三日も経たずにやめてしまったし、それ以降も書きたいと思うことはない。読み返そうと思ったけどどこかへ行ってしまった。
誰にも言えないことってある。ここに私はけっこう誰にも言えないことを書いているつもりだけど、そんな私でも言えないことはあるし、あと言ったら誰かが嫌な気分になるだろうなってことが多い。
そんなものを書こうと思って始めたけど、どうもしっくりこなくてやめた。たぶん書いたら本当になってしまいそうな気がしたからだと思う。例えば誰かの悪口をそこに書いたとして、そうしたら本当に私が悪口を言うような人になってしまう気がする。
思ったり考えたりするのは自由で、罪のないことだと思う。ただそれを文章という形にしたときに、私は本当はそういう人間だったのだと決まってしまうような恐怖がある。私は自分の中の醜い部分が許せないのだと思う。
noteを書くとき、私は理想の私を演じている節が少なからずあると思う。もちろん全部本心で書いているのだけど、こう思いたい、こう見られたい、こういう人でありたい、みたいな願望が例えば文体なんかに無意識的に表れていると思う。
私にとって文章は、自分への洗脳のような役割があって、繰り返し理想を演じることで自然と自分自身が変わっていくことを望んでいる。ここでいう理想というのは、なりたい自分というより、見せたい自分とか、ありたい自分が正しいような気がする。
なので本当の自分の核の部分というのは書かない、というか書けない。自分のことと言っても文章にするとどうしてもフィルターがかかってしまうから。醜い部分からはどうしても目を背けたくなる。
私はnoteで他の人からのリアクションがないと日記を書けないと思う。それが私のこの文章が日記なのか、それとも日記の皮を被った何かなのかという悩みに繋がっている。
最近、日記を本の形にしてみたいなとふと思った。もし今の自分の文章を本にするなら、いちばん読みたいのは日記な気がした。新しく書くのは変に意識してしまいそうなので、noteのやつをそのまま印刷したい。
誰かに売るとか見せるとかはいったん置いておいて、本をつくりたい。楽しそう。表紙とかそういうのは何でもよくて、たくさんの紙を手で一枚一枚綴じていくみたいな作業がしたい。そういうの好き。