昨日は日記を書けなかった。理由はM1を見ていたからで、M1について何か書こうかなと思ったけど、なんかSNSを見てるだけでおなかいっぱいになってしまったので、もういいやという感じ。真空ジェシカが毎年好き。

土曜日から実家に帰っていて、今日家に帰ってきた。M1以外は死にそうなくらい退屈な三日だったので、もう帰りたくないなと思った。実家にいたころを思いだした。どうしてかやる気というものが何もかも根こそぎ奪い去られるような感覚がある。

孤独とはなんだろうと考える。最近、孤独だとかさびしいとか思うことが減った、というかほとんどない。一人暮らしの影響だと思う。一人で暮らしてるのに、実家で暮らしていたころよりさびしくないなんて不思議だ。

夜にどうしようもなく不安になったり、さびしいと感じたりして、独りで暗闇を見つめつこともなくなった。たぶん独りでいることがデフォルトになったからだと思う。

しかしさびしさとはなんだろう。孤独は一人でいることだ。感情ではない。でもさびしさというのは感情で、人それぞれ感じ方が違うはず。

私はつい最近までストレスという感覚を理解できなかった。人々が言うストレスと、私が感じていた実際のストレスに乖離があった、そしてストレスがかかっていること常態化していて見えていなかったのだと思う。ちなみに今でもきちんとは把握できていない。ストレス発散という言葉がいまいちピンと来なかったりする。

それで言うとさびしさは、私がさびしさと呼んでいるこれは本当にさびしさなのだろうか、とよく思う。世間との乖離があるとかそういうことではなく、そもそもみんなさびしさという感情を勘違いしているのではないかとなんとなく思っている。

さびしさを言語化すると、ふとしたときに気づく喪失かなと思う(まだきちんと考え切れていない)。なんとなく外を歩いていて、空を見て、それは綺麗な青空で、そして「あれ?ないじゃん」と失ったことに気づくようなイメージ。

夜に私の周りに誰もいないことに対して泣くことはさびしさなのだろうか。孤独ではあると思う。でもどうして孤独だとさびしいのだろう?孤独の何がいけない?

何かを欲するさびしさと、私が言ったように失うさびしさがあるのかもしれない。だって私は孤独を埋めていたものをなにも失ってはいないのだから。

この「何かを欲するさびしさ」をさびしさと呼ぶことに違和感があった。上手く言えないけど感覚と矛盾している。それって性欲や承認欲求なんじゃないのと思ったりもする。

たぶん失ったというより、空洞を眺めているのだろう。失ったものや空洞は埋めなければいけない。でも、さびしさは鳴るんだよ。だからこの「埋めなければならない」という感情をさびしさというのは違和感がある。

さびしさは鳴るのだろう。きっと耳を澄ませばそれがさびしさかわかる。

私がどうしようもないさびしさと表現していたあれは本当にさびしさだったのだろうか。古い小屋の中心で竜巻が起き上がっていくみたいなあの感情。どうしようもなかった。部屋中がめちゃくちゃになって、いつこの壁や屋根も吹き飛ばされるかわからない。それなのに竜巻を止める方法なんて知らないし、竜巻の中心にいるからか風はそれほど強くなくてどこか心地よい。

さびしさを感じないのはいいことだと思う。きっと社会圧みたいなものから離れることができてきているのだろう。でもさびしさを感じるということは何か失うものがあったからなのではないだろうか。何も失うものがなくなったから、さびしさも感じなくなったのかもしれない。

純粋に今の生活が私に合っているだけかもしれない。でもなんだか少し急にさびしくなった気がする。失うものがないなんて言うなよって言われた気がした。

誰かのさびしさを埋めるということは、同時にさびしさを与えるということだと思う。じゃあね、またね、ばいばい、みんなでさびしくあろうね。

マシュマロ


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