強い人になりたいとよく思う。私が言う強い人というのは自分の我を通せる人。自分の思いを曲げない人。

やさしい人になりたいとは思わない。私にはやさしい人というのは往々にして損しているように見えるから。でもそんな人たちが幸せになる社会であってほしいと切に願う。私みたいな人はその次の次くらいでいい。本当にそう思う。

やさしい人というのはどんな人だろうとよく考える。未だに答えは出ない。なんとなくだけどやさしい人というのは強い人の上位互換みたいなイメージがある。他人のために自分の我を通せる人、他人のために自分の我を曲げることができる人。

私は立派な人になりたいとは思わない。私は相当薄情だと思う。そのことで失敗してきたし、傷つけてきた人もいると思う。それについては反省しているしできることは改善しようと思っているけど、そういう薄情さ自体を改善しようとは思っていない。というかたぶんできない。

それでも困っている人がいて私に助けられるなら、助けていきたいと思う。そういうところから世界は変わっていくのだと私は思うから。電車で席を譲って私は正しいことをしたのだろうかなんて思い悩むような性格は改善したい。

少し話は変わるけど、いじめっていつかなくなるのだろうか。本当はツイッターに書こうかと思ったけど、上手く伝わる気がしなくてnoteにした。noteは一対一で対話しているような気がする。

小学校中学校、高校、大人になってもいじめはあると聞く。私は幸いにもいじめられた経験はない。運がよかったのかもしれない。そういう雰囲気のあるクラスに所属したことがないのでいじめというものの実感があまりない。

小学校中学校とささやかなもの(こんな言い方はよくないけど)は見たことがある。それでも一線を越えるような危うさは感じなかった。いや離れたところから見ていた私がそう感じていただけなのかもしれない。

私が見てきたいじめのようなものをやっていた人たちってみんな人がよかった。明るくて誰とでも話せてクラスのカーストはトップでみたいな人。私と話すときはとてもいい人なのに、立場の弱い人にかなりきつい当たり方をしていたのを何度も見てきたことがある。

別にそれが不思議だとは思わなかった。人によって態度が変わるのってある程度仕方ないし、自分の気に食わない人に対して強く当たってしまう人なのだと思っていた。一線のラインって難しい。中にいるといじめとそうじゃないものの区別がかなり歪んでしまう。いま思えばいじめだし、すごい危ういライン上をずっと綱渡りしているような感覚に思える。

いじめはなくならないよなと思う。人間が長期間ひとつのグループとして集まると本当に異様なものを形成する。人が人を殺すような大きな悪意じゃなくて、小さな悪意が埃のように積もって風通しの悪い空間で劣悪な環境を作っていく。

いじめられた人が復讐してやるみたいな発想になるってことは、きっといじめはなくならないのだと思う。周りも人をいじめたことがある人間は報いを受けるべきだみたいな考え方が多い。でもそれっていじめと何が違うのだろう。

きっかけはきっと些細なことなのだと思う。目つきが気に入らないとか、見てるとなぜかいらいらするとか。そういう小さな悪意が雪だるまのように大きくなって収拾のつかないものになる。

その、いじめを肯定するつもりは全くない。それにいじめられてる人にずっと我慢しろと言っているわけじゃなくて、やり返せるならなるべく早い段階でやり返したらいいと思うし、最悪なタイミングで爆弾をぶん投げてもいいと思う。ただそれを正当化するのは違うと私は思うだけ。

強い人になりたい。そのとき私が正しいと思った行動を取れるだけの強さが欲しい。やさしい人になる必要なんてない。自分が正しいと思うことをやり続ければいい。

マシュマロ


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