【短編小説】大きくて切ない
「映画、面白かった?」
彼女はそう言って、コーヒーがなみなみと注がれたカップにそっと唇をつけた。草原を撫でる息吹のように、ふうと息を吹いて立ち上る湯気を押しやる。僕の答えなどどちらでもいいようだった。彼女が二度息を吹きかけ、その黒い液体を口に含むのを待ってから僕は「つまらなかった」と言った。映画を見る前に彼女へ言ったように、人間が演じていると思うとどこに感情移入すればよいか分からなくなるのだ。僕はいままで映画やドラマのキスほど無意味な口づけを見たことがない。
「どこがつまらなかったの」
彼女は言う。
「最初から最後までずっと……」
そこまで言うと僕は彼女の表情を確認してから「くだらない映画だった」と付け加えた。店内は昼時をとうに過ぎているのに妙に騒がしかった。講義の合間の大学生や、主婦、学校をさぼった制服の高校生、正体の分からないおじさんなど、この時間のファミレスはバラエティーに富んでいる。僕たちは講義の合間の大学生だった。今日はいまから1時間ほど後に選択の授業が入っている。
「新川さんは、どうだった」
今日、映画でも見ないかと誘ったのは彼女だった。見たい映画でもあるのかと思えば、そうではなかったようで、券売機の前で少し迷ってからCMなどで最近よく見かける恋愛映画のチケットをふたつ分買っていた。僕はその間、ふたり分のポップコーンと飲み物を買った。平日の昼間だというのに館内はほぼ満席だった。
「私もよくわからなかった」
僕は彼女の言葉と一緒にウーロン茶を飲み込んで、テーブルの真ん中に置かれたフライドポテトをひとつつまんだ。『私もよくわからなかった』それから彼女の続く言葉が手に取るようにわかった。それなのに彼女の考えていることは何一つわからなかった。手つかずのまま小皿に入れられたケチャップとマヨネーズが目についた。
「いつからふたりは好きになったのか、わからなかった。気づいたら物語は終盤で、キスしてた」
「たぶんいつからって明確なタイミングはないと思うよ。でも何かがあるんだよ。僕たちには見えないナニカが」
僕たち。この『たち』の中にはきっと僕が思うよりも多くの人が含まれている。僕と彼女。僕らふたり。そうだったらどんなに素敵だろうと思う。ただそういう単数ではない孤独をありがたがるのは僕だけで彼女は違う。彼女は、例えば英語の『they』のような関係を望んでいる。『I』でも『you』でも『he』でも『she』でもない。もっと多数的でかつ個人的な関係。
彼女の中で『僕は同じ悩みを共有できる人』でしかなかった。しかしそれが彼女の中でどれほど大切な存在なのか、短い付き合いだけれどよく伝わった。でも僕にとって彼女は、大きくて切ない存在だということを彼女は理解することはできないのだろう。僕が理解できないように。
「ねえ、私は誰かを愛することができると思う?」
彼女の口癖のようなものだった。愛と名のつくものを、僕たちは生きる過程で浴びるように触れてきた。僕はそれを掴もうと手を伸ばし、掴んでは理解するために眺めた。でも僕にとってそれは水だった。
「僕が決めていいの?」
「そういうことを……言ってるんじゃ、ない」
彼女はそう言いながら、ポケットからスマホを取りだした。それから「あ、忘れてた」と独り言のように呟いて、スマホに数文字だけ打ち込みまたポケットにしまった。
「ユミにこの前のスタバ代借りてたの忘れてた。今日返すって言ってたのに。ちょっといまから行ってくる」
彼女はテーブルに500円玉をひとつおいて、急いで席を立った。新500円玉だった。僕は余ったフライドポテトをケチャップとマヨネーズをつけて口に運んだ。冷めたポテトと油の味がした。彼女が居なくなったせいで漠然とした不安と孤独感が僕の正面に座った。授業までここに居てもよかったけど、それはなぜだかとても惨めな行為に思えた。彼女ならどうしただろう。そんな風に考えること時代が惨めなのだと思った。しかし一度浮かんだ考えを沈めることはできず、彼女も同じように席を立つだろうという結論に至った。そしていまから僕がするように、少し遠回りをして大学へ向かうのだ。
会計は1050円だった。僕はセルフレジに1000円札と50円玉を入れた。レジが吐きだしたレシートは少し迷ってから捨てた。彼女から貰った綺麗な500円玉で出入り口に設置されたガチャガチャを二度回した。このあとの授業でもし話す機会があったら一つ渡そうと思った。