友達って何だろうって考えた。眺めなくてもいい人たちというのはどうだろう。私はよく人を遠くから眺めている。

道の先で知り合いが二人歩いていたとして、どちらも私の友達ならばきっと話しかけることができる。でもどちらか一方がそこまで仲良くない人だったら、たとえ向こうが友達だと思っていても話しかけることはできない。

友達というのは関わりがないと、友達メーターみたいなのが減っていってただの知り合いにランクダウンしてしまう。いまの私が道で見かけて声をかける人はこの世に一人もいない。

人と話したくないと心が叫んでいる。でも、やっぱり人と話さないというのは心の健康的に良くない気がしている。ここ最近心がだるい。

だから自分が思ったことは相手に言うというのをテーマにSNSをやっている。ああ、今日読んだnoteにコメントしようか迷って、結局するのをやめてしまったのを思い出した。あああ。最近誰かに何か言ったっけ………

自分から能動的に動かないと私はあっというまに一人になってしまう。
なんかこのnoteがいけない気がしてきた。この内向的な感じが心によろしくない。

私のいまの外界との関わりは、note、短歌、ツイッター、小説、だけ。私の感覚ではnoteが一番内向的で、小説が一番外向的。noteは誰かが読むことをなるべく考えないようにして書いてる。私のために書いてるというのが一番正しい。

構成とか読みやすさみたいなのは考えてない。良い文章がぽっと産まれたらやったぜって感じ。だからたまに、「自分の書いてる文章は恐ろしく読みにくいんじゃないか」「気持ち悪いものを永遠に書いてるだけだ」と不安になる。

話が少しズレたけど、noteはものすごく内向的。感覚としては自分の心の中を散歩して、その感想を文章にしてるようなもの。小説は自分の外側に出て物を創ってる感覚で、ツイッターは物を外にぶん投げてる。短歌は小説よりも内向的で、外のもとと合わせて自分の中で物を創っている。

私はnoteを書くのに外のものを必要としないから、無限に書けるというか、インプットがなくても書ける。ストレスフリーで書けるし、自分で言うのもあれだけど、結構よく書けてるものもある。私は自分の書くnoteが結構好き。

最近ずっとnoteを書くのが楽しくって、ここ掘れワンワンって書いてたんだけど、掘りつくしてしまった感がある。エネルギーって外のものと内側のものが半々くらいがいいと思っていて、現状私は外のものが無くなって、掘り返した土ばかりになっている気がする。空っぽなのにいっぱいなのだ。

書いてて思うけど、小説や短歌に比べたらこういうエッセイとかの方が私は向いている。だから掘り返した土を使って泥人形作りました、みたいなのができてしまう。だからいま書いてるこれも泥人形かな。溜まった土を外に書き出してる(泥人形だって良し悪しはあると思い込む)。

何かを創ってると安心する。こういうとき、部活の先生に言われた「人は易きに流れるから」といい言葉を思い出して、「正論…正論……」って唇を噛む。noteは私にとって易きなのかな、と思いでも易きが正解かもしれないじゃんとも思う。

もう少し外のものを入れた方が良いのは絶対そうなので、何か探します。良い短歌(私が好きな短歌)は、外と内のバランスがちょうどいいよなと思ったのがきっかけです。私には外がない。