自立したいと思う。それは私が少しずつだけど、大人になっているということだろうか。そもそも自立とはなんだろう。

私はこの世界で、ひとりで、二本足で立っていきたいと思っている。これが私の自立。

過保護な環境と行動力のなさのせいで、ずっと家の中で暮らしてきたような感覚がある。ひきこもっていた時期があるわけではないのに、家から出るのは怖い。

最近の教育はいささか過保護すぎるよなぁと思う。昔を知らないので比較にはならない。

小学校のころ学区の外に出てはいけないと言われたら、目と鼻の先にあるコンビニに行くのをやめた。暗くなる前に帰れと言われた帰った。

中学のころ、自転車で二時間とか三時間とかかけて遠くへ行くことが流行っていた。しかし私は行かなかった。母に何か言われるのは目に見えていたし、先生にも何か言われているようだった。

もちろん行きたいと言えば行かせてもらえたと思う。いくつかの制約がつけられただろうけど、それだっておそらく無視できた。

ただ、反発するのが嫌だったのだ。そういった思春期特有のエネルギーが私には昔からなかった。両親と喧嘩したって、私の立場は彼らより弱く、決定権は相手にあるため勝ち目なんてなかった。先生に反発するなんてもってのほかだった。

意味なんてないのだ。彼らは私の言葉に聞く耳を持てない。エネルギーの無駄、だから大人しくニコニコ言うことを聞いておこうと思った。実際それが一番楽だった。

敷かれたレールの上に乗せられて生きてきた。だからか自分の意思というものが少ない。何かしたいと基本的には思わないし、何もしたくないと思う。

しかしようやく自立したいと思うようになった。このままじゃダメだと思ったのだ。では自立とはなんだろう。

私はこの世界で、ひとりで、二本足で立っていきたい

親元離れればそれは自立か。ひとつの自立ではあると思う。しかし私は誰にも寄りかからずにひとりで立ちたいのだ。

私はいま、特定の誰に寄りかかって生きているのかと言われたらそうではない。ただ自分の足で立っているのかと言われると、違うと思った。

例えるなら満員電車の中にいるような感覚なのだ。周りに多くの人(他人)がいるから立っていられる。駅についてドアが開いて、人々がどこかへ行ってしまったら私は立つことすらできないだろう。でもまたすぐに人は入ってくる。この世界は人で溢れている。

変な例えだけど、満員電車の彼らがいっせいに寝たら私も寝るし、前に向かって歩きだしたら私も歩く。その流れに反発することはできないし、身を任せた方が楽なのだ。

私の自立はこの満員電車の中で不動の意思を築き、自らの足できちんと立っているという自覚を持つことである。不動の意思とは侵害を許さない私のパーソナルスペースで、それを築くこと、そしてその中に立つことが私の自立である。

それさえ出来れば流されることもなくなり、私は自由にどこへだって行ける。

私は私である。私はいまここにいる。と叫ぶことが自立なのだ。

具体的な話を考えてみる。

自分の中で譲れないものをきちんと持ち、他人の評価に左右されないということ、これを私は意識していきたいと思っている。

例えば、私は小説を書いている。そのことをここですら大声では言えない。私は自分の書いたものに対する他人の評価に絶対の自信を持てないのだ。

でも私はいつかそれを名札代わりにして生きていきたいと思う。作家になるということではなく、私は私に、表面的な絶対の自信を持ちたいのだ。

これは小説に限った話ではなく、自分の内面でどう思っていようと、ただの他人の評価で侵害されないものを持ちたい。

他人に頼らないということではない。そこを忘れないようにしないと私はすぐに孤立してまう。

立つことで、他人を頼らない。誰かにおんぶにだっこじゃいけないということだ。この世界できちんと自分の二本足で立っていくことは、きっと想像以上にキツイ。それでも立たないといけないときに誰かが必要なのだ。それを忘れてはいけない。

私はもう自分のことを惨めだと思わない。自分に同情しない。私は私で、私が私なのだ。私はこの世界で、ひとりで、二本足で立っていく。