脱線
ZINEを作ろうと思ってから一週間が経った。進捗はない。エッセイを読みたいなと思って買おうとしていた本はまだ買えてないし、一文字も書いてない。
いきなり脱線だけど、Amazonですら買い物が億劫。買い物が苦手すぎて、スーパーに行っても、これはまた後で買おうみたいなことがよくある。買い物が苦手という感覚にどれだけの人が共感してくれるのか。少なくとも身近にはいない。
ZINEの話に戻る。なんだかまねっこみたいだなと思って少し自己嫌悪を感じてる。小さい子が年上の子がやってるのを見て「私もあれやりたい!」って言うやつ。私にはそういう節がある気がする。人が持ってるものでいいなと思ったら、同じものを買ったりする。するとお揃いになってしまうわけなので、相手からしたらちょっと嫌なのかなと思う。自分のことしか考えてない。あと自分で道を切り開いていくのが怖いのだと思う。
人が食べてるものは美味しそうに見える理論と同じで、人が使ってるものとか読んでる本は良さそうに見える。だから私は誰かが名前を出していた本とか映画とかを見たりすることがあるけど、それでもし不快になった方がいたら申しわけないと思う。
ああ、そうだ。noteで繋がっている方々のZINEを、オンラインで買えるなら買おうと思っていたのを忘れていた。ううぅ買い物……もうお金は払うので送りつけてほしい。
最近病み気味なので、私なんかが買ってしまっていいのだろうか?みたいなことを考えてしまう。ツイッターの鍵垢とかと違って、売られているものはお金さえを払えば買えるという暴力性みたいなものを孕んでいる。気にしすぎなのはわかるけど、私には読まれたくないかもしれないし、なんだかお金で関係を買ってるような気がしてしまう。どうしたって買ってくれた人という関係になるし、私だってお金を出して買ったのだからと期待を抱いてしまう。個人間での売り買いはそこが難しい。
お金は嫌いだ。価値が明確すぎる。
脱線……私は興味の対象が目まぐるしく変わるので、話がすぐに脱線してしまうのだけど、それってやっぱり読みづらいのだろうか。脱線に脱線を繰り返してどこへ辿りつけるかな、と文章を書くのが好きなのだけど、あんまりそういう書き方をしてる人を見ない。
みんな書くものをあらかじめ決めてから書き始めているのだろうか?私はZINEの進捗について話す、と決めてから書き始めてるけど、いま全然違うことを書こうとしている(私のバカ!)。
エッセイが書けないのはこれが原因で、ルートを決めて書きたくないという思いがある。だってそんなの楽しくない。でもそれで言うと日記はわりと楽しく書けている。たぶん話したいことが明確にあってそれを書くことが目的になるからだと思う。
これは日記と呼べるのだろうか?と思う。その日に思ったことを書いてるので日記と呼べるような気がするけど、『その日』というより『今』なのでちょっと違うような気がする。日記というと一日のまとめみたいなイメージがあるから、やっぱり日記ではないのかもしれない。
日記というルールでものを書くようになってから言語化してしまうことの怖さみたいなものをより感じるようになった。言語化は保存する形を決定することだと思っている。ぼやっとした感情をこれは淋しさだね、悲しさだね、恋だね、嫉妬だねと収納しやすいように感情に形を与えていく。一度形を決めてしまったら変更はなかなか利かないし、変形の過程で廃棄されてしまったものを拾い集めても意味をなさないことが多い。
言葉にならないものこそがすべてだと私は思う。でもそんなことを言っていると孤独になる。だから言葉を使う。言葉にならないものを運ぶために。