ドラム式洗濯機の中で回転する洗濯物を眺めている。黒い男物のスウェットと、赤や緑の色鮮やかな女物の服が一緒くたに回っている。ときどき洗濯物の量が多いとき、近所のコインランドリーへ行く。それも早朝、街がまだ眠っているような時間帯に行くのが好きだった。ゴウンゴウンと稼働する洗濯機を背景に、ときどき通りかかる車の音や鳥の鳴き声に耳を澄ました。洗濯の間、手持無沙汰になることはわかっている。なのでいつも何かしら本を持っていくがそれが読まれることはなかった。僕は飽きることなく、ドラム式洗濯機の中で回転する洗濯物を眺めていた。

 それは僕に恋を思わせる。僕に脱ぎ捨てられた服が、彼女の服と恋をしている。ぐるぐると回り、混沌とし、ある種のダンスのように絡み合う。最後はしわくちゃになって出てくる。乾燥機に入れられ正気に戻る。ハンガーにかけられ「私たちどうかしてたわ。別れましょう。それがお互いのためなのよ」なんて言い合う。それから何ごともなかったかのような顔をして街を歩く。そして汚れたらぐるぐる、洗濯が始まる。そんな人生も悪くないように思えるし、くだらない戯言のようにも聞こえる。

 僕は一度だけ、宿命的な恋に落ちたことがあった。それを初恋としてしまったばかりに、それ以降のものも以前のものも、恋と呼ぶにはどこかゆるやかで、発熱のないもののように感じてしまう。緩慢で、怠惰、しかしそれでいて抗いがたい力に流されるようにあれから数人と付き合った。落ちると表現するにはハエが止まってしまうような落下。しかしそれでも世間はそれを恋と呼んだし、彼女たちも我々の関係が恋であることに疑問を持ってはいなかった。僕だけが過去に囚われていた。いや、あのまばたきとまばたきの間の一瞬に囚われつづけている。あの瞬間、時が本当に止まったのなら、僕の時は未だ止まったままなのだろう。

 僕には当時、別の恋人がいた。大学一年の時に出会い、成り行きで体を重ねた。僕はこれまで恋人というものができたことがなかった。高校生の僕にとって、同じクラスの女の子たちは穢すことの許されない神聖さと生々しい肉体を兼ね備えた異星の生物だった。だから告白どころか、目を見て話すことさえできなかった。彼女たちの黒くつややかな髪の中で、いったいなにが考えられているかわからなかったし、穢れを見たことのないその瞳に僕がどう映っているのか、想像するだけで恐ろしかった。

 しかし受験を終え大学生になり、キャンパスを歩いているうちに、彼女たちを覆っていた生々しくも神聖なベールのようなものが失われていることに気がついた。彼女たちが変わったのか、それとも僕が変わったのかわからない。おそらくその両方だと思うが、そんなときに僕は初めての恋人である彼女(名前は葵といった)と出会った。

 彼女は都内の女子高出身で、女子高特有の空気に呼吸困難を起こして、共学の大学を選んだ。彼女もまた僕が初めての恋人だった。

「女子高にいると、人間がどうして男と女の分かれていて、共同体を築いていくのかよくわかる。歪むのよ、色んなものが。それも決まってよくない方向にね」

 葵はよく女子高時代のことを僕に話した。そしてその話はいつも「ようやく息が吸える」という方向に落ち着いた。そのときの皮肉交じりの彼女の笑みが僕は好きだった。

 僕と葵の関係が彼女の言う、男女が共同体を築いたことによって起きた歪みではないのだろうかと僕は彼女と別れてからよく考えた。例えば僕が女で(もしくは彼女が男で)友人として出会えたら、僕らはもっと良い関係を築けたのではないだろうか。そんないかにも大学生が考えそうなことを、延々と考えていた時期もあった。どれもこれもあの日、僕が宿命的に落ちた恋が原因だった。葵と別れたことも、そしてそれ以降の恋が退屈に感じてしまうのも。

 その女の子と出会ったのは僕が20歳になって間もないころに開かれた飲み会だった。それが何のための会で、何の集まりだったかは覚えていない。しかし大学生の飲み会の例に洩れずくだらないものだったことだけは確かだ。どうして僕がそのような会に参加する羽目になったのかも当然覚えていない。僕は慣れないアルコールにちびちび口をつけながら、いつこのくだらない集まりから抜け出そうかばかり考えていた。食器のぶつかる音、バカみたいな笑い声、下品な会話、見え透いた下心、周りの客からの視線。すべてにうんざりしていた。

 どこへ行っても同じなのだ、と思った。そうだ、僕はそれまで入っていたサークルを抜け、別のサークルに入った際の新歓だった。当時金に困っていた僕は、一食浮かせるならと、この飲み会にのこのこ顔を出したのだ。しかし開始三分でそのことを後悔した。これだったら、家で適当な料理を作って、皿を洗って、22時にベッドに入る方がずいぶんマシだ。このサークルはそれから一週間でやめた。

「ねえねえ、ミサトちゃんは彼氏いるの?」

 僕はミサトちゃんと呼ばれている彼女の方を向いた。なかなか綺麗な子だった。小柄で、黒い髪は肩の上で切りそろえられている。丸い眼鏡をかけていて、その奥の瞳でさっきから色んなものを広い視野で見ている。唇はきゅっと結ばれていて、ほとんど何も口にしていない。

「いません」と彼女はその結ばれた唇を開いて言った。そして周りの男たちの相づちを無視してまたその口を開いた。

「でも、心に決めた人ならいます」

 僕はその瞬間、彼女に平伏しそうなほど恋に落ちた。

 これまで人を好きになったことはある。葵のことだって好きだった。そしてその感情が恋なのだと思っていた。葵と一緒にいるのは楽しいし、話も合った。彼女と寝るのは僕を奇妙な気分にしたが、それでも悪い気はしなかった。彼女は綺麗だったし、頭もよかった。しかし僕が彼女に感じていたのはただの異性の体温であり、承認欲求であり、孤独の紛らわしだった。恋ではない。

「ねえ、さっきのほんと?」

 男たちがいなくなったすきを見て、僕は彼女に話しかけた。

「さっきの?」

「心に決めた人がいるって話」

「ほんとです」

 彼女はそう言って、机の向かいから僕の目をじっとのぞきこんだ。言葉の真意を探るように。その瞳は僕をドギマギさせた。心の奥底まで見透かされていくような気分だった。

「その、心に決めた人っていうのはどんな人なんだろう? もし言ってもいいのなら、ということだけど」

 僕が尋ねると彼女は視線を斜め上にずらし、少し考えこんだ。男のことを考えているというより、今後の人生や永遠、死のような哲学的なことを考えているみたいな表情だった。

「そういうことなら秘密にしておきます。心の外に出したらそれは、きっと形を変えてしまうような気がするから」

 それから僕らはどちらが言いだしたわけでもなく、席を立って店をでた。駅までの道のりで僕らの間に会話らしい会話はほとんどなかった。僕はこれまでの人生で胸が苦しくなるような女の子の隣を歩いたことがなかったし、彼女の方は初対面の人に気を使ってあれこれと話すようなタイプではなかった。彼女の身長は僕の肩ほどで、歩くたび眼鏡がズレてそれをしきりに両手を使ってなおしていた。小さくて白い手だった。僕は妹がよく遊んでいたうさぎの人形の手を思いだした。

 その小さな手に触れてみたいと思った。手の温度は温かいのだろうか、それとも冷たいのだろうか。手の柔らかさは、爪の長さは、物を握るときの強さは、その手はこれまで何を握ってきたのだろうか。彼女のすべてを知りたいと思った。息が苦しい。このまま彼女の足もとに跪いてしまいたかった。そしてそのまま二度と浮上できない海の底まで落ちていって、宝石でも作るみたいにこの心臓を圧縮して死んでしまいたい。でもそんなことはできなかった。僕はこの急にテンポを変えられたメトロノームみたいに、激しく自らの存在を主張する不完全な心を抱えて愚かにも生きていくしかない。

 街灯をひとつひとつ通り過ぎて、これから飲みに行く学生やサラリーマンたちとすれ違う。空を見上げても闇があるだけで、星はまったく見えない。月はどこかの建物のかげに隠れてしまっている。立ち並ぶ居酒屋はどれも賑わっているが、異世界に迷い込んでしまったかのようにどこか奇妙で不自然に見えた。街路樹の茂みにはコカ・コーラの缶やコンビニのビニール袋が捨てられている。ズボンのポケットに手を当て、スマホ、財布、家の鍵が入っていることを確認する。靴は去年買った、鼠色のスニーカーを履いている。そして隣には歩きながらしきりに眼鏡をなおす彼女がいる。

「ねえ、心に決めた人がいるってどんな気分なんだろう?」と僕は聞いた。

 これが最後の会話になるであろうことがなぜかわかった。宿命的に始まったものは宿命的に終わるようにできている。彼女はまっすぐ前を向いたまま、特に考えることもなく口を開く。

「消えることのない暖かい火を抱えているような感じ」

 それ以上彼女は何も言わなかった。だから僕も何も言わなかった。駅に着き僕らは短い挨拶を交わして別れた。彼女はJRのホームに消えていった。あとをつけて何線の電車に乗り込むのか、確かめたい衝動に駆られた。しかしやめた。連絡先さえ聞けなかったのだ。これ以上何を知っても虚しくなるだけなのは目に見えていたし、彼女が僕に対してささやかな好意すら持っていないことは明白だった。初恋というのは実らないもの、そうじゃなきゃ初恋じゃないと葵が言っていたのを思いだす。

 そのあとすぐ、僕は葵と別れることになった。彼女の方から半ば一方的に別れを告げられた。「あなたは私の初恋だった。気づいてなかっただろうけど」と彼女は言った。

 それから僕が付き合う女性は偶然か必然かみんな丸い眼鏡をかけていた。いま付き合っている女性も丸い眼鏡をかけた小柄な女性だった。知的で話が面白く、散歩が好きでよくふたりで街を歩いた。最近は犬を飼いたいと言っている。小柄でキャンキャン飛び回るような犬が欲しいようだった。彼女はセックスの際に眼鏡を外した。それだけが彼女に対する不満だった。

 眼鏡も服と一緒に洗濯機で洗えればいいのにと思った。僕は丸い眼鏡が服たちと一緒に洗濯機の中で回る様子を想像する。その姿は次第にいま付き合っている彼女へと変わり、ぐにゃりと粘土のように歪んでミサトの姿へと変わった。しかし彼女の顔をはっきりと想像することはできない。もう5年も前に一度、顔を合わせただけだ。はっきりと覚えている方がおかしい。彼女もまたぐにゃりと姿を歪ませ、ただの服と眼鏡に戻った。洗濯が終わり僕は服を取り込んだ。