日記 誰かと一緒に暮らすこと
高瀬隼子の「水たまりで息をする」を読んだ。なんか久しぶりにいい読書をしたなと思う。純文学が好きなのかと言われると首を傾げたくなるのだけど、やっぱり何も私の要求してこない小説が好きなのだと改めて思う。
読み手の心を意識的に操ろうとする文章はどうにも苦手で、私の心の手綱を握らせてたまるかという気分になる。心を動かすかどうか決めるのは私であって、あなたではないとなぜか反発的になってしまう。たぶん単に心に余裕がないのだろう。
ざっくり小説の内容を書くと、夫がお風呂に入れなくなって、日に日に不潔になっていくけど、まあいいかと思う妻の話。読みながら私はお風呂に入ってもらわないとムリだなと思った。私はただ不潔であるというだけで、人を愛せないのかと自分の不寛容さに気づく。
夫婦って難しいなと思う。私はこれから結婚する際の条件に「相手がお風呂に入れなくなっても愛せるか」という項目が追加されてしまった。結婚やら愛に色々求めすぎているなとは思う。もし相手が不潔になってしまったら「そんな人はムリです」とさっさと離婚してしまっても別にいいのだろうけど。
今日、同じアパートに住んでいる夫婦(おそらく)を見かけた。仲睦まじい様子で、ふたりで車に乗り込むところだった。以前も一度、旦那さんが朝、通勤のために車に乗り込むところに鉢合わせしたことがある。そのとき、旦那さんは誰かに手を振っていて、その相手が奥さんなのだと後に知った。
ふたりは歳が離れているように見える。しっかり顔を見たわけじゃないから何とも言えないのだけど、5歳以上は離れているように思えた。だから何なのだと言われればそうなのだけど、とても仲がよさそうで、少し不思議に思った。仲が良い夫婦というものを私は現実的に想像できない。
私は図書館で借りてきた本を持って自分の部屋に帰る。そしてこの間取りで二人暮らしをしているのか、とその暮らしを想像してみる。たしかに不可能ではないし、都内とかだったら割と普通なのではと思う。
それから私は私の暮らしの中にもう一人、人が増えることを想像する。物置にしていて全く使っていない部屋があるから、そこに住んでもらうことはできるなと思う。そのまま脳内でそろばんを弾く(比喩)。家賃光熱費が半分になり、食費などは2倍になるが増えた分は相手に払ってもらえばいいので、メリットしかないという結果が弾きだされた。
でもまあ、結局は私が人と一緒に住めるかというのが問題で、それはムリだろうなという結論に毎回なる。
一緒に暮らす人というのはどういう扱いになるのだろう。あくまで他者として線引きをするのか、それとも自分の内側の人として扱うのか。そこら辺がよくわからない。
私は誰かと一緒に暮らすというものに何かしらの憧れがあるのだと思う。だから人と暮らす予定もつもりもないのにこんな文章を書いている。私が小説を書くとき、恋人のような立ち位置の相手とは大抵一緒に暮らしている。
しかし思えばその相手たちはみんな、主人公に対して恋愛感情を持っていないように書かれることが多い。なぜか私の内側に入ってきた人。恋愛はあくまで他者とやるもの。そんな雰囲気を感じる。
一歩街へ出ると、世界は二人組で溢れている。対向車線の車の助手席には決まって誰かがいるし、歩いている人も二人組が多い。そんな様子を見るたびにどうして私は独りなのだろうと思う。よくわからない。
誰かと暮らすことへの憧れが、純粋に興味関心からなのか、それともいつか来る本当の孤独への恐怖からなのか。そんなくだらない恐怖に負けたくないなと思って生きていくしかない。
自分の書いた良い感じ文章に小躍りをして、美しい小説やゲームや音楽に感動して、私の人生はこれでいいんだとまた思うのだろうな。