1

 二月だというのに外はいやに明るくて、換気のために開けた窓からは春風のような温かい空気が入ってきた。その風はカーテンを柔らかく膨らませ、彼女の問題用紙を机の上から僕のもとに運んできた。優雅な鳥の羽のように音もなく降り立ったそれを僕は拾い彼女に渡した。問題用紙の隅々まで計算の跡があり、僕は彼女に計算用の白紙を渡すのを忘れていたことを思い出した。ちらりと解答用紙に目をやると空欄はなくどれもおおむね正しい答えが書き込まれているようだった。

「もう終わったのでいいですよ」

 と彼女は言い、回答用紙を僕に差し出した。僕は振り返って時計を確認する。まだ10分ほど時間はあったけれど、僕は解答用紙を受け取った。それから「採点するから少し待ってて」と言った。彼女は「はい」と返事をし机の上のシャーペンや消しゴムを筆箱の中にしまい、消しゴムのかすを床へと払い落とした。

 回答用紙には薄く丁寧な字で『2年4組20番 中村由香』と書かれていた。そういえば彼女はそんな名前だったと思いだす。自分の担任するクラス以外の生徒だと、顔と名前が上手く一致しない。かろうじて繋がるのは名前とクラス、そして成績くらいだった。彼女の成績は優秀だったはず。もちろん僕が受け持っている物理に関してはということだけど。

「理科室、久しぶりに来ました。こっちで授業やらないんですか? 実験とか」

「君たちをわなわな移動させるより、僕がそっちへ行った方が早いからね。実験なんてやってる暇はないし」

「せっかく綺麗な別棟に理科室があるんだから使わないと勿体ないですよ。気分転換」

「考えておくよ」

 僕は彼女に目もやらず黙々と解答に丸を付けていった。丁寧な字で丁寧な解答が書き込まれていて、それを僕が上から赤いペンで丸だとかバツだとか三角だとか採点していく。おかしな世界だと思った。こんな力学や電磁気学が彼女の人生になんの役に立つのだろう。僕は彼女より少し早く産まれて、少し物理ができるだけなのに「キルヒホッフの法則への理解が少し足りていないね」なんて偉そうに言うのだ。もし僕が彼女と同じクラスメイトだったら、僕は彼女の足元にも及ばなかっただろう。85点。おかしな世界だと思った。

 僕は彼女に解答用紙を返した。問題の制作者としていくつか言いたいことがあったけど、何も言わなかった。彼女はそれを無感動に受け取り、すぐに半分に折りたたんだ。まるで85点を取ることがあらかじめわかっていたかのようだった。85点なかなかの高得点だ。彼女のクラスでは間違いなく3本の指には入るだろうし、学年でも10番前後といったところだろう。

「戻っていいよ。まだ授業をやってるだろうから静かにね」

「先生はここでお昼を食べるんですか?」

 なんだか見透かされたような気分になって、彼女の方に目を向けた。別に僕をからかっているわけではないようだった。純粋な疑問。少し過敏になりすぎているな、と思った。

 僕は息を吐きだしてから「たまにね」と言った。いくつになっても職員室の空気には慣れない、とは言わなかった。歳を取るにつれて言えないことが増えている。

「昼休みここで過ごしてもいいですか?」

 僕の「どうして?」という質問には口をつぐんだ。言いたくないというより、上手く言えないようだった。首もとで切りそろえられた襟足を不安げな少女のように触っている。

「先生、先生たちの中で浮いてますよね?」

「意外とそうでもないよ」

「いつも見かけると一人でいる」

「そりゃ高校生とは違うからね。いつも誰かと一緒にいるわけじゃない」

 四限の終了を知らせるチャイムが鳴った。校庭に目線を下すと、さっきまでサッカーをやっていた男子生徒たちが一人もいなくなっていた。僕は彼女が問題を解く音を聞きながら彼らのサッカーを見ていた。とても気持ちよさそうに彼らは校庭を走っていた。もう春が来たのかと錯覚するほどの日差しが、変わらず校庭に降り注いでいる。

「じゃあ先生、いままで女性と付き合ったことがないってうわさは嘘ですか? ロリコンだって言われてますよ。だから高校の先生をやってるんだって」

「それを聞いて君はどうするの」

「どうもしません。というかどうもできません。ただそういう空気に耐えられそうにないんです」

 僕は改めて彼女を見た。2年4組20番で物理の成績が優秀な中村由香としてではなく、彼女自身を。まず綺麗な目をしていると思った。10代のあどけなさ残る顔立ちとは不釣り合いな瞳。化粧っ気がない透明な肌と対照的な血色の悪い唇。手足はすらりと不健康的に細く、それを真っ黒な制服が中和していた。もし僕が彼女と同じ高校生だったら、手も足も出なかっただろうと思った。話すことも関わることもなく、ただじっと春の曇りのように恋をしていただろう。でもそれは高校生だったらの話だ。あの頃は、目に映る女の子の一挙手一投足すべてが僕の胸を初恋のように苦しめた。彼女たちが触れることのできないバーチャルの生命体のように思えた。でもいまは違う。

「隣の準備室を使っていいよ。鍵は開けておく。あんな埃っぽいところに昼休みに来るような人は僕しかいない。もし誰かに何か言われたら僕の名前を出すといい。ノートか何かを取ってこいと言われたって」

「そんなことしてバレたら先生が怒られないですか?」

「それはバレ方によるだろうね」

2

「あの子たちも来年は三年生ってなんだか感慨深いですよね」

 と安田朋美は言った。彼女とは同僚で唯一の同期だった。半年ほど前からよくこうして仕事終わりに誘われて食事をするようになった。ほとんどが学校から少し離れた大衆居酒屋で、彼女が愚痴を話し、僕がそれを聞いていた。周りに同年代の同僚がおらず、仕方なく僕に白羽の矢が立ったという感じだった。しかしもっと早くからこうしておくべきだったと後悔した。抱えている悩みはどれも似たようなものだったし、そしてなにより僕らは気が合った。彼女は現代文の教師で僕は物理の教師、彼女は地元の国立大を出ていて僕はぱっとしない大学を卒業していた。しかし彼女と話すと僕はリラックスできたし、彼女もそのようだった。お互い話してみなければわからないことがあるのだ。

「でも受験生のクラスってやっぱり違うものなのかな。みんなピリピリしたりナーバスになったり。覚えてます? 自分のときこと」

 僕は覚えていないと言ってから、そのことについて考えてみた。しかし結論は変わらなかった。高校のころのことは不思議と何ひとつ思い出せなかった。まるで年表が黒で塗りつぶされているみたいに。

「私は覚えてますよ。友達と一緒の大学に行けたらいいねって言って、ここら辺の進学校の高校生って私のころもとりあえずみんなK大を目指すんです。東京の名前の知れた私立に行くには場所が悪くて一人暮らしになっちゃうから。私、いまだに覚えてて直近の模試でD判定取っちゃたんです。いままでは悪くてもCだったのに」

 そこまで言うと彼女は嫌な思い出を捨てるように息を吐きだしてから、二杯目のグラスに口をつけた。今日学校で見かけたときよりも心なしか唇の色が明るかった。指には見慣れない指輪もついている。

「その友達はすごく優秀な子でずっとA判定だったんです。本当はもっと上の大学も狙えたけど、その子の親が家から通えるところにしなさいって。女の子で国立大に入れたら、まあ誰も文句は言わないじゃないですか。彼女は私の前では言わなかったけれど、本当はもっと上の大学に行きたかったように見えました。私も一緒の大学には入れたら嬉しいので何も言いませんでした」

「それで二人とも無事合格できたんだ」

「そうです。私はぎりぎり、彼女は余裕で合格しました。彼女はそのあと色々あって大学をやめちゃったんですけど」

 あまり詳しくは話したくなさそうだったので僕は相槌だけを打って、適当に目についたものをつかみ箸を口に運んだ。彼女は遠い思い出を懐かしむみたいにテーブルの上のメニュー表を眺めていた。何も書かれていない裏面を二度ひっくり返して確認し、メニュー表をもとの位置に戻した。

「何の話でしたっけ」

「3年生の担任が不安だって話」

「そうです、そう。周りの先生に聞いても、何とかなるとしか言わないし」

「不安になったり、心配するのっていいことだと思うよ。心配事の9割は起こらないって言うじゃないですか。それってたぶん、心配してるからですよ」

 彼女は頬杖をついて僕の言ったことを考えているようだった。ただ思い付きをそんなに深く考えられても困ると思いながらも、彼女はもう自立した一人の大人なのだ、わざわざ情報の取捨選択まで気にかけてやる必要はない。そう彼女は大人なのだ。そして僕も大人だ。しかし僕は言ったいつ大人になったのだろう。成人したときだろうか。それならいまの子は高校生でもう大人ということになる。なら働き始めたときか。そもそも僕は大人なのだろうか。

「しっかり心配しきって、あとはもう何とかするしかないって自分を信じればいいんだと思いますよ」

 大人と子供の違いはどこにあるのだろう。僕は彼女——中村由香を思い出した。彼女はまだ子供だ。というより大人になる成長過程だろう。カエルならオタマジャクシに四本の脚が生えてきてしっぽが目立たなくなってきているころだろう。その状態はオタマジャクシと呼ぶのだろうか、それともカエルなのか。

 そんなことを考えていると彼女が大きなため息をついた。僕がどうしたのかと聞くと「また心配事をひとつ思い出した」と言って息を吐きだした。

「クラスで生徒の変なうわさが流れてるんです」

「変なうわさ?」

「そう。中村さん——そういえば今日、期末テストの残りをちゃんと受けたんですよね?」

 僕はうなずく。

「彼女、遅刻とか欠席とかが少し多くて、でも授業態度が悪いとかも聞かないし、テストの点数もよくて優秀な子だからあんまり気にしてなかったんです。体も丈夫そうではないから月に何回かは体調が悪い日があるよねって。でもたまたま生徒同士がうわさしてるのを聞いちゃって」

「どんな?」

 彼女は言葉を探すように唇を歪めた。それから「あんまり真に受けないでくださいね」と前置きをした。

「男の人と会ってるのを見たって言うんです。かなり年上の」

 僕はなるべく深刻そうなそぶりで相槌を打った。僕は彼女に今日のことを言うかべきかどうか迷った。でも自分の生徒が担任でもない先生に助けを求めたと知ったら彼女は多少なりともショックを受けるだろうと思った。彼女は真面目で責任感が強いタイプだった。それでも生徒と先生という関係を考えたら彼女に言うべきなのだろう。しかし結局言うとことはできなかった。僕にはそれが自らのくだらない保身のために彼女との約束を破る行為に思えた。

「彼女、特別美人ってわけでもないし、優秀さをひけらかすようなところもないから嫌われるような生徒じゃないんです。むしろ好かれやすい方だと思う。私の経験から言っても」

「うわさはうわさだよ。高校なんてそんなうわさしょっちゅう流れるし、すぐに忘れられる。でも何かあってからじゃ遅いから、僕も少し気にかけてみますよ」

「そうですね、お願いします。今日はこんな話ばかりですみません。今度、もっと明るい時間にご飯一緒にどうですか? いつも私の愚痴ばかり聞いてもらてて申し訳ないし」

「もちろん、ぜひ」

 彼女と別れて一人になってから、「おかしな世界」とつぶやいた。彼女は僕に好意を持っている。僕も彼女に好意を持っている。同期として何度か一緒に飲んだ。そして今度一緒に食事をする。なんだか恋の始まりを演じているみたいだった。この感情は偽物じゃない、恋と呼んでもいいはずだ。でも何かが引っかかる。踊っている、踊らされていると感じる。いったい誰に。わからない。はたしてこの感情は僕自身のものなのだろうか。

3

 一人の女子生徒に理科準備室を貸してから、理科室に行きにくくなった。職員室で適当に昼食をすませ、理科室で授業の準備をするのがいつの間にか僕のルーティンのようなものになっていたらしい。昼食を食べ終えてからの昼休み、特にそのあとに授業がない日は何をすればいいかわからなくなり手持無沙汰になってしまった。だから僕は仕方なく昼休みの終わり際に理科室へ向かった。彼女がいなければいないことを知れるし、一度会ってしまえば気まずさもなくなるだろうと思った。僕は教科書やノートを持って席を立った。

 この学校の理科室は教室とは別棟の二階にある。一階にある職員室から薄暗い渡り廊下を通り、階段を上って二階へ行く。別棟の一階には生徒たちが集まる細やかな食堂のようなものがあり、いつも昼休みの時間ギリギリまで生徒たちが談笑していた。今日はいつもより人が少なく感じた。三年生がいないからだ。それでも主に二年生のいくつかのグループが楽しそうに食事をしていた。いろんな人がいる。教室で食べようが、食堂で集まって食べようが、理科準備室で食べようが昼食は昼食だ。何も変わらない。しかし僕はそんな当たり前のことに気づくのに二十年以上もかかってしまった。それを十七で気づく人もいれば、一生気づかない人もいる。いろんな人がいる。

 案の定、彼女はそこにいた。まるで自分の部屋のように頬杖をついて、無感動に埃のかぶった生物図鑑を眺めていた。僕に気づくと彼女は一瞬体を強張らせ、すぐに安心したように息を吐きだした。その様子を見て、僕は一体何をしているんだろうと思った。これではまるで密会じゃないか。

「なんだ先生か」

「僕しか来ない」

「ねえ、ほんとに先生しか来ないの?」

 僕はうなずく。

「でも私、理科室で授業受けたことあるよ。何回かだけど」

「もちろん来る可能性はある。でも昼休み後に理科室を使う授業って僕のしかないんだ。だから可能性は低い」

「今日もそう?」

「今日は違う。水曜日はこの時間授業がないんだ。だからいつもここで時間を潰してる」

「私は邪魔かな」

「僕は理科室の方にいるから気にしないでいいよ。君がいるか確認しに来ただけだから」

「私、毎日ここに来てる。気に入った。静かで心が落ち着く」

「それはよかった」

 と僕は言うと、彼女は優しく笑った。花が太陽を見て目を細めるみたいに、とても自然に。窓がなく二つの出口しかないこの狭苦しい部屋には似合わない微笑みだった。ここは僕の部屋だ。ここには出口しかない。彼女はどうしてここに迷い込んできたのだろう。授業開始五分前の予鈴が鳴った。それを聞いて僕は彼女を見て、彼女も僕の方を見た。

「ねえ、授業は?」

 彼女は何も言わずに今度は埃かぶった元素周期表を眺めた。彼女の足もとには体操服の入ったカバンが置いてあった。

「単位は大丈夫なの。遅刻欠席が多いって聞いてる」

「誰から」

 安田先生だと僕は答えた。彼女は大きくため息をついた。どうやら安田先生はあまり生徒に(少なくとも彼女に)よく思われていないみたいだ。彼女も彼女なりに頑張っているのだと、目の前の女子生徒に言おうと思ったけど、何もかもめんどくさくなってやめた。安田朋美が生徒から嫌われていようが、中村由香が進級できなからろうが僕には関係ない。問題は勤務中に異性の生徒と二人きりでこの狭い部屋にいることだ。でも次第にそのことさえもどうでもよくなった。僕は大人として彼女に居場所を提供してあげているのだ。別に見返りを求めているわけじゃない。いったいそれの何が悪い。

「いいの?」

 僕が理科室へ行こうと扉に手をかけると彼女はそう言った。その声色から、背中越しでも彼女の表情がありありと伝わった。わがままな子供を相手にしているようないらだちと、自己嫌悪がどっと肩に乗りかかった。でも僕はすぐに肩の力を抜いた。僕は彼女よりも幾分歳を重ねた大人なのだ。そして僕らは対等で公平だ。先生をしているとそのことをときどき忘れてしまいそうになる。『そんなこと知るか』と怒鳴りつけるのは公平じゃない。

 僕は理科室からひとつ椅子を持ってきて、彼女の前に座った。彼女は頭のいいサルが自分の目の前に椅子を持ってきて座りだしたかのような表情をしていた。やるからにはきちんと最後までやり切ろうと僕は思った。その結果どこにも行けなくてもだ。もともとこの部屋には行く先なんてないのだ。いつかは扉を通ってもといた場所へ出ていくしかない。もしくは全く知らない場所へ連れていかれるかもしれない。

「ねえ、怒ってます?」

「少しね。自分自身に」

「私のせい?」

「違う」

 僕がそういうと彼女は少し警戒を解いたように、椅子の下に折り曲げていた足を少し伸ばした。スカートと靴下の間から覗くその足は陶器のように白く細かった。僕は彼女がその足で歩いている姿を想像しようとしたけど、上手くいかないかった。記憶の中の彼女はいつも座っていた。きっと現代アートのような奇跡的なバランス感覚で立ち、歩いているのだろうと思った。

「私、ここしか居場所がないんです」

「同じだ。僕にも居場所と呼べるような場所はここしかない。一人暮らしなのに家にいるとなぜだか気が滅入る。それにお互い変なうわさを流されてる」

 それについて彼女は何も言わなかった。

「君を見ていると初恋を思い出す」

 ずいぶん大胆な発言だなと思う。芸能人のように悪意のある切り取り方をされたら、きっと僕は唯一の居場所さえも失うだろう。

「それは先生がロリコンだからですか?」

 彼女は表情一つ変えずにそう言った。『二十代男性教師、女子高校生に理科準備室で初恋の話を持ち掛ける。なおその教師にはロリコンの疑惑』。すべて事実だ。何ひとつ訂正するところはない。僕は二十代男性教師だし、女子高校生に理科準備室で初恋の話を持ち掛けた。生徒たちの間でロリコンの疑惑もある。すべて認める。しかしこの国の警察は行きとどいた私刑とは違い怠惰なので、このくらいで捕まることはないだろう。

「それは大切なことかな」

「はい」

 と彼女はうなずいた。僕は考え込むように曖昧な返事をした。理科準備室は相変わらず埃っぽくカビや薬品が混じったようなにおいがした。空気が悪くよどんでいる。しかし僕はここのよどんだ空気が好きだった。僕にとって外の世界の空気はある意味では軽薄すぎて、ある意味ではよどみすぎていた。それは彼女も同じのようだった。水を得た魚という表現は適切ではないかもしれないけれど、とても落ち着いてゆっくり息を吸っているように見えた。

 さて、と僕は思った。何をどう話せばいいのだろう。口から出した言葉はたちまち酸化して、本来持っていた意味を失ってしまうような気がしてならなかった。僕は混じりのない純粋な言葉を探した。しかしそんなものはどこを探してもなかった。純粋な鉄がどこを探しても見つからないのと同じだった。そのままの姿ではいれない。だから人は純粋な言葉を発したいとき、涙と熱を持つのかもしれないと思った。しかし僕はそのどちらも持ち合わせていなかった。

「言葉で説明することは難しい。これは僕の内面に関わることだし、個人的な話もしなきゃいけない。ただ君を見ていると初恋を思い出すといったのは、君が初恋の子に似ているからとか、いまでも高校のころの恋を引きずっているからじゃない。君と初恋が似ているんだ。初恋なんてそんなに美しいものじゃない。色んな感情が歪んでそれが美化されたものだ。でも洗練された清潔さが必ずしも美しいわけじゃない。君のことはほとんど何も知らないけど、僕には過去の感情と今の君が重なって見える。だから僕は君のことがそれなりに好きだ」

「説明が下手みたい」

「そうだね」

「それなりに好きだなんて言葉、初めて聞いた」

「僕も始めて言ったよ」

「でもここ最近言われた言葉の中で一番うれしい」

「あんまり健康的な生活を送ってないみたいだ」

 僕がそう言うと彼女は記憶に積もった埃をフッと吹くように笑った。耳を澄ますと、外でサッカーボールが蹴られる音や、上の階の音楽室からリコーダーやギターの鳴る音が聞こえた。僕も彼女もしばらくの間、黙って学校の音を聞いていた。僕はこの部屋が学校の一部であることを思い出した。

「ねえ、私も先生のこと何も知らないけど、それなりに好きだよ。それだけはわかる」

「ありがとう。ここ10年言われた言葉の中で一番うれしいよ」

「あんまり健康的な生活を送ってないみたい」

 まったくその通りだと僕は笑った。彼女は頬杖をつきな僕のから頭のてっぺんから足の先までを一通り眺めてから立ち上がった。それから体操服を抱えてドアの前まで歩いて行き、ふと何かを思い立ったように止まった。

「私、当分ここには来ないと思うの。だから先生のインスタ教えて」

「そんなものはやってない」

 じゃあラインと彼女はスマホを差し出した。少し迷ったけど、あきらめて僕は彼女とラインで友達になった。友達と僕は思った。世界には色んな関係性がある。彼女は僕のラインを追加し終えると、特に何も言わずにドアを開けて理科準備室から出ていった。彼女の遠ざかっていく足音を聞いていると自分が一人取り残されているような気分になった。彼女は先に進み、僕はこの場所から一歩も動いていない。しかしそれの何が問題なのだろう。ここは僕の場所なのだ。どうして僕がでていかなければいけい? しかし彼女の言うようにあまり健康的ではないことは確かだった。

 その日の夜、彼女からラインが届いた。「おやすみなさい」というたった一文だけだった。絵文字もなければ句読点もない。それが僕らのラインの友達としての最初のやり取りだった。僕は「おやすみ。」とだけ書いて送信した。すぐに既読はついたけど返信はなかった。『23:48』健康的な生活と僕は思った。

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https://note.com/niko2_5_/n/n8d612d8a3c58