誰かに心のとびらを開くことはないのだろう。開きたいと思うことがないし、どうすれば開くのかわからない。

私の心の中には二つの扉があって、一つ目の奥にある部屋がここ。そしてそのさらに奥にもう一つの扉がある。

ここというのはこのnoteであったりツイッターであったり小説を行う部屋、その奥にあるのは自分でもあまり行くことがない本当に誰にも見せてない部屋。

心を一つの家と見なすと、私は玄関までしか他人を入れない。私の家で一番広い部屋をリビングと呼ぶとして、そこに当たるのは上で言ったnoteとかをやる部屋なんだけど、ここまで人を入れることはほとんどない。ゼロと言ってもいいと思う。

例えば玄関まで入れた人と好きな小説の話になったとき、私は「ちょっと待ってて」と言ってリビングからその小説だけを玄関へ持ってくる。(この「ちょっと待ってて」がなかなかいい例えなんだけど伝わるかな………)

社交的な人とか多趣味な人は心の部屋数が多かったり広いイメージがある。私の部屋数はたぶん玄関とリビング、そして誰も入れない部屋の三つしかない。

他人の心へも基本的に私は玄関までしか入らない。どうぞってドアが開いてるのは分かるんだけど、その奥に入れない。

人を家の中に入れなきゃ何事も始まらないよなぁって思い、応接室みたいなのを最近作ろうとがんばっている。そこにはいままでリビングにあって外に出せそうなものをとりあえず並べている。まだまだ完成しそうにはなく人は呼べない。

人と付き合うっていうのは心の一番広い部屋に人を招くことで、恋人とか家族になるような人はもっと奥の部屋だったり、新しい部屋を作ったりするんだと思う。恋人や家族にも本当の最奥にある混沌は見せなくていいと思うけど、そういうものを見せあうのが愛だという意見もある気がする。

じゃあ私は自分がいまくつろいでるリビングに人を招けるか、それはこのnoteを見せれるかということなんだけど、なかなか難しい気がする。「入れてよ」と言われたら「むり、ごめんだけど、むり。上手く理由は言えないけどむり」と言うしかない。

普通の人なら奥の部屋にするであろう部分を、一番広い部屋にしているから玄関までしか入れないみたいなおかしなことになるんだよと思う。じゃあ模様替えして部屋を増やすかって考えると、「なんで、私の、一番、広い、部屋を、他人のために模様替えしなきゃいけないんだ!ここは私の心だぞ!」ってなる。

居心地がいいんだよね。基本的に私はこの心のリビングから出ないんだけど、人と話すときなんかはここからでなくちゃいけなくて、それがすごいストレスになる。満員電車とか特に苦じゃないのはこのリビングから出なくていいからだと思う。私はここから出ることがストレスでそれ以外のことはそこまでストレスじゃないんだと思う。

昼間はこのリビングでくつろいで快適なんだけど、夜になると部屋が無駄に広くて淋しくなる。もっとものを増やさなきゃとか、誰かと一緒にいたいって思う。どうしても淋しさに耐えられなくなると、奥にある真っ暗な部屋に入る。

私のnoteを読んでいる人や、ツイッターで繋がっている人たちは私のリビングを”知っている”人たちなんだけど、招き入れているという感覚はない。でも私の心を一番よく知っている人だと思う。不思議だけど。

誰かを招くならまずはネットからかなって思ってる。現実で会うとかじゃなくて、仲良くなるという意味。やっぱり私と似たような人が寄って来てると思うし、私も似たような人に寄って行ってると思う。

だから友達友達っていつも言ってるけど、いざってときに「やっぱりむりです、ごめんなさい」って引っ込んでしまう。

こんなこと言ってるけど、私にとって他人は本や趣味で代替できるものなのだと思う。淋しいと思うのは部屋が殺風景だからでそんなのが気にならないくらい熱中できるものに出会えれば淋しさも忘れる。

noteもそのひとつで、私が友達が欲しいだとか恋人がと言うのはnoteの書くネタになるからなんだと思う。何かに悩むのは好きだし、一種の中毒だから自分の足りない部分を眺めてるときは心地がいい。

この中毒は、きっと一生満たされることがないから危険だなぁとふと思う。一生自分の欠損を探して泣くのだろう(泣けないけど)。