この家にいたら腐ると思った。それでも家を出ないのは、もう私が腐り始めているからなのかもしれない。朝の八時、仕事場へ向かう母が玄関のドアを閉めた音で目が覚めた。アラームが鳴るまであと三分ほどあったが、私は体を起こして伸びをする。まだ眠気が体を包んでいる、そんな夏休み明けの一日が始まる。

 布団を畳み、カーテンを開け朝日を浴びる。眩しさにくらっとめまいがした。夜の間についた穢れを洗い落とすように、しばらく朝日を身体に当てているとスマホのアラームが鳴った。好きなアーティストの曲でイントロに鳥の鳴き声が入っている。この曲で毎朝起きられたら幸せだろうな、と思いアラームに設定したが、目覚めが良くなるなどの効果はない。それだけではなくアラームの音という印象が強くなり曲のイントロを聞くと不快感を感じるようになった。

 リビングへ降り、スマホをソファに放り投げた。それからテレビの電源をつけて、顔を洗いに洗面所へ行く。朝起きて、家に誰もいない幸福を分かり合える人はいない。ここは誰にも邪魔されない私だけの空間なのだと思うと鼻歌が踊りだす。

 大学へ行くため十一時に家を出たくて、それまでに昼食を済ませたかった。この中途半端な時間は私を困惑させる。十時過ぎに昼食を取るのが一番なのだが、これまで一度たりとも十時の昼食が上手くいったことがなかった。十時というのは私の朝食にしては遅く、昼食にしては早すぎる。ある程度の空腹は食事の手助けになるが、その程度を過ぎると空腹は吐き気へと変わる。そのタイミングが十時だった。そしてまた、これから家の外へ出るという事実が私を緊張させ、食事が喉を通ることを許さない。

 課題や軽い予習をしているといつの間にか十時になっていた。例のように空腹は吐き気へと変わり、緊張が喉の奥に溜まる。今食べないと、次に物を口に入れるのは夕食になるし、家の外での食事なんて考えただけでも吐きそうだった。つまり私には今、ここで食事をする以外の選択肢はなかった。

「みのりは痩せすぎだから、もっと食べなきゃダメよ。いつか栄養失調で倒れちゃうわ」

 それが最近の母の口癖だった。大学生になり勉強をしなくてよくなったため、口癖が太りなさいに変更したのだ。私はその言葉を思いだし、冷凍のパスタを口に詰め込んだ。

 母の言うことはいつも正しい。私の体重は四十キロを大幅に下回っていた。SNSなんかで痩せすぎだと、言われる女優やモデルよりもずっと軽い。お風呂場で怖くて自分の姿が見れないほど、私の体は痩せていた。

 パスタは残り二口分くらいになって手が止まる。もうこれ以上は食べれない、吐いちゃうと脳が司令を出したのだ。私はそのパスタと数分間、見つめ合う。十本ほどの麺と細かく刻まれた三つのベーコン。このくらいなら食べられると思い箸を持つと、途端に胃の内容物が体積を増す。

「食べものを残したらバチが当たる。そういう子は今度生まれ変わったら、貧しくて、食べるものもないような国に生まれる」

 ごめんなさい、と私は誰かに謝った。残したパスタを流しの三角コーナーに捨てる。そこには昨夜の残りのご飯や魚の皮、豚汁の人参、じゃがいもなどが一緒に入れられていた。私は食べ物をゴミにしたのだ。パスタを残したことを母に知られたくなくて、絶対にそんなことする必要がないのに箸で三角コーナーの中をかき混ぜた。白いご飯と魚とパスタと豚汁が混ざりあって、食べ物が腐り始めている臭いがした。

*

私は呪われている

それは愛を込めた呪い

私の血潮に流れるその呪いから解放されようと手首にナイフを当てる

しかし呪いは私を傷つけることを許さない

*

 大学近くの駅前にスターバックスコーヒーがあった。私にはこれが夏休み以前からあったものなのか、判別がつかない。私の捉える世界はいつも曖昧で絵画のように奥行きがなかった。そのすぐ横にはマクドナルドがあった。

 人混みは、人に嫌われているので私は好きだった。木を隠すには森の中。一応人間の体裁をしている私を隠すなら人の中がふさわしい。人混みの中にいると私も社会の一員になれたような気がして、少し嬉しい。私が人混みより好きなのは誰もいない夜道。

 例えば誰もいない夜道を私が歩いていたとする。月が辺りを薄暗く照らし、ぽつぽつと街灯の明かりが夜に穴を開けている。人はいない、野良猫さえもいない。つまり誰も私を認識していない。私以外、私を認識していない、そんなとき私は存在しているといえるのだろうか。『存在していない』という言葉の響きは渚に打ち寄せる波のように優しく私を撫でた。

 大学へ向かう途中、またマクドナルドがあった。今日は少し遠回りをしていたためこんな発見がある。駅前のマクドナルドから歩いて五分もかからない距離にそれはあった。人が横切り、自動ドアが開いた。中からあの独特の匂いが溢れだす。私は思わず顔をしかめた。胃がぐるりと動き、吐き気がする。

 大学についた。ここに私を知っている人は一人もいない。つまり私にとって大学は人混みと変わらない。椅子に座れるだけ、人とぶつかる心配がないのでここの方がいい。大学は高校までと違い独りでいることを許されていると感じる。高校までは何事もクラス単位で動き、一員であることを強く求められた。クラスの一員からひとたび外れれば、二度と戻れないという恐怖。クラスとは船で、船の外は海だった。私はようやくその船を降りることを許されて、一人で船を持つことができるようになった。

 私は教室の端に座り哲学概論の講義を聞いた。酷く意味のない講義だった。先生は私たちをここに九十分の間閉じ込めておくというミッションが水面下で動いているのかもしれない。そうでもないとこの状況を説明することは困難そう。

*

私は船の上で生まれた

目開けるとそこには二人の男女がいた

男の方の名は父

女の方の名は母

「ここはどこ」と私は母に尋ねる

「私たちは家族なのよ」と母は言った

「どうして私はここにいるの」

「家族だからだよ」と父は答えた

*

 電車が揺れている。私が揺れているのでない。電車が揺れているのだ。電車は私を運ぶ。遠くへ。学校へ。家へ。

 私はレジ袋を抱えていた。帰りに駅前の本屋で買ったものだった。二冊の小説を買った。帰り道に何かを買うのは初めてだった。禁止されていたわけではない。ただ何となく一歩が踏み出せないでいた。会計のとき、キリのいい数字だったのでぴったりのお金を出した。すると彼女はレジ袋はいるか、と聞いてきた。反射的に「はい」と言ってしまい三円の追加料金が発生した。私は十円玉を足して、七円のおつりを受けとった。

 行きと同じ風景を逆再生で見ている。眠っている間にビデオテープのようにキュルキュルと明日の再生に備える準備をする。私は目を閉じる。目を閉じれば独りだ。

 家に帰ると母と弟がいた。玄関を開けて、生活の明かりと音が漏れてくる感覚が嫌いだった。他人が築き上げた空間に入る、私は部外者。そこでどんな会話がされていたのか、想像することしかできない。

「おかえり。疲れてたでしょう」

 私は曖昧に返事をしてお風呂場に向かった。

 ぬるくなった湯船に浸かり、体の緊張がゆっくりと溶けていくのを感じる。疲れていない、と思っていたがやはり外に出るという行為だけで私の体はぎゅっと丸めた紙のようにくしゃくしゃになってしまうのだ。丁寧に体を伸ばしていくがついたシワは消えない。

「家に帰ったらいないからびっくりしちゃった。学校に行くなら言っといてよね」

 お風呂を上がりの私と目が合うなり母は言った。オンライン授業のせいで私の登校日は不規則だった。私はまた曖昧に返事をして、夕食を食べ始めている母の隣に座る。テーブルの中心には大皿に盛られた焼きそばが置かれていた。

 野菜をよけて取り皿に焼きそばよそう私を見て、母は決まり文句のように「野菜も食べなさい」と言う。母も本気で言っているわけではないことを知っているため私は無視する。ここで私が「食べようかな」なんて言ったら「どうして?」などと色々と聞かれることになり逆に面倒なことになる。それは些細だが私が野菜を食べない理由のひとつだった。

 食事を終え私は自室へ行く。父はまだ仕事から帰っていないようだった。最近帰りが遅い気がする。それは最近の父と母の仲が悪いことと関係しているのだろうか。離婚するならそれもそれで構わなかった。帰る家が無くなるというのはどういった気持ちなのだろう。物寂しさを抱えながら生きていくことになるのだろうか。きっと一粒の涙を足下の水たまりに落とすのと変わらない。

 私は目を閉じて、夢をみる。世界が魔法にかかったように色づく未来を。そして祈る。明日が何もない平穏な一日であることを。

*

死にながら生きている私に何を求めているのか

何も知らないくせに

一丁前な口を利く

私の言葉を聞く人はいない

それは言葉を失うことと何が違うのか

私が腐る前に

私が腐るまでに

私の言葉が

私の代わりに

どこかへ辿り着くことを願う